男に異存はない。包茎の話。

現場の声から性教育の実態を知る

2019年10月13日

中学校の先生の新聞投書

 実は大人たちこそが、子どもたちの真の意味での成長を、妨げているのではないか――。
 去る10月6日付朝日新聞朝刊の読者投稿欄で、学校現場の性教育を憂うたいへん興味深い投書があった。私はこれを読んで、率直に感心する部分があった。なので、多くの人に関心を持ってもらうため、この場を借りて敢えて全文を引用させていただきたく思う。投稿文は、神奈川県在住の27歳、中学校教員の方の「性の知識 学校で正しく教えて」である。
 
《中学校で教師をしているが、教育で性がタブー視されすぎていると感じる。私は国語の教師だが、愛や恋というものですら、教科書にある物語ではほぼ触れられていない。
 性を扱うことになっている保健体育科も、「思春期は性への興味が芽生え、女子は月経が始まると妊娠が可能になる」、という程度しか教えないことになっている。女性が妊娠しやすい時期はどんな周期でやってくるかや、避妊の方法は、教えない。中絶の精神的、身体的負担はどのようなものかや、女子の閉経は個人差があることなども知る機会がなく、生徒は中学校を卒業する。
 教室という閉鎖的な空間で性について教える難しさや、生徒の発達に個人差があることは理解できる。しかし公教育が消極的な結果、ネットで誤った知識や過剰な知識を得た子らが、ゆがんだ交際関係や望まぬ妊娠に遭遇しているのではないか。
 避妊薬をめぐっては、オンライン処方の解禁など議論が活発だ。だがその必要性を減らすため、努力できることがあるのではないか。性が生命を生み出す尊いものであることを前提に、知識や手段をしっかりと生徒と向き合い教えていくべきだ》

(2019年10月6日付朝日新聞朝刊「声」投稿欄より引用)

 

他の国の性教育はどうなってる?

 個人的にもいろいろ調べていくと、日本の公教育では、性に関する知識及びその学習指導は、ほぼすべて保健の科目に押し込められているのが現状のようだ。例えば日本では、理科の授業で科学的な見地から、人体における成長期のからだの成長・発達などは教えないし、社会科の授業では、個人における社会的な性の在り方とその多様性について触れることはほとんどない。
 
 外国の例ではどうか。橋本紀子・池谷壽夫・田代美江子編著『教科書にみる 世界の性教育』(かもがわ出版)によると、オランダにおける4歳から12歳までの初等教育では、「セクシュアリティと性的多様性」という必修主題が含まれているし、フランスでは、中学校と高校1年で学ぶ“生物・地学”の教科で、「女性と男性」という単元があり、男女の生理学や性の多様性を学ぶ。ドイツでは、各州によって性教育の方針はまちまちで、学校の制度も日本とはだいぶ違うが、ブランデンブルク州では、11歳から12歳にあたる基礎学校の5、6学年で学ぶ“生物”の教科において、男女の生殖や出産、避妊などを学習し、その教科書の解説や図解はたいへん詳しいものとなっている。また、近隣国である中国や韓国においても、性教育に相当する教科書の内容は、日本の保健体育の教科書の性に関する記述よりも、殊更詳しい解説になっている。したがって、単純な比較論でいっても、日本の性教育は、諸外国と比べて「著しく遅れている」ことは間違いないだろう。
 

国語の授業で愛や恋は登場するか?

 国語の教科において、物語の中で愛や恋にほぼ触れられていないと、投稿者は述べていた。確かに、国語の授業で、愛や恋に関わる物語について、それもまともな愛や恋について学ぶという例が、実際にあるのだろうか。
 主人公が熱烈な恋をし、その恋模様について解くという授業内容は、あまり聞いたことがない。定番中の定番である、夏目漱石の『こころ』ではなんとか、“遺書”という形での告白文によって、友情と恋について扱われていたりするが、果たして中学校の国語の教科書で漱石が扱われるのか、私はよく分からない。
 教師の裁量で愛や恋についてを含ませることは不可能ではない。不可能ではないが、そもそも根幹がずれているのである。
 性教育の根幹であるはずの「人を愛する」という観点が、保健体育科の性教育では、ばっさりと抜け落ちてしまっているのだ。性を学ぶということは、「人を愛する」ということ。「人を愛する」ということは、性を学ぶということ。日本の教育の在り方は、本質的な部分から目を背けている、と言わざるを得ない。
 
 本来、男女が成長期に差し掛かって必要とされる性知識や、めっぽう膨らむであろうその年頃の心理的かつ身体的感受性の問題、その倫理観や道徳観の成熟度といった問題、さらには近い将来、社会人として性生活を送るための不可欠な事柄を、小中学校くらいまでのうちに教えるべき、と国際的にも承認されている部分において、日本は何故か、蚊帳の外のように思われる。冒頭で述べたように、実は大人たちこそが、子どもたちの真の意味での成長を、妨げているのではないかと、だから思うのである。
 

タブー視するのをやめよう

 日本の公教育では、いまだ、「セックス」を教えることがタブー視されている。性に対する子どもたちの眼差しは、興味本位の「セックス」であってはならない。避妊の方法を知らぬまま、望まぬ妊娠に、そして人工中絶という現実の実相は、男女にとって重い責任を背負う若者の暗い影となってしまう。母胎のリスクは決して軽いものではない。いずれにせよ、日本式の性教育の欠陥が、それを逆に推し進めることになってしまう。
 
 公教育における性教育の不十分さを、抜本的に改める必要があるのだ。愛とは何か。恋とは何か。またそれに伴う「セックス」などの性交渉は、どうあるべきなのか。望まぬ妊娠人工中絶性感染症の悲劇は、当事者の責任の問題だとなすりつけ、公教育は依然としてこれらの問題から目を瞑り、耳をふさいでいる。
 成長期に差し掛かった若者は、ぜひとも愛や恋について友達や大人たちと真剣に語り合おう。何より、「避妊するセックス」基本形であると、認識すべきである。大人は、現場の声に耳を傾けよう。性に関する正しい知識を、何らタブー視することなく包括的に教えるべきなのだ。

〈了〉

2019年10月6日付朝日新聞朝刊の投書

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