男に異存はない。包茎の話。

LGBTと性の多様性から学ぶべきこと

2019年6月20日

実際的な経験として

 もうだいぶ昔のこと。今だから話せるという話――。
 
 私が小学6年生の時だった。ある男子の友人が、私にこっそりと秘密の話をしてくれたことがある。その話の要点は2つ。①片思いの好きな子がいること。②そのことで、子ども電話相談室に電話してみようと思っているということ。
 彼がその秘密の話をしている時の表情は暗く、とても重々しかったのは憶えている。だが、具体的に誰が好きなのかとか、どういった内容で子ども電話相談室に電話をしたいのかについて、彼はこまかく喋ろうとはしなかった。私も突っ込んでそれ以上訊かなかったし、おそらく彼は、子ども電話相談室に相談しても、何も解決しないだろうといった諦めの気持ちもあったのだと思う。それでもそこに電話しなければ、気持ちが収まらない――といった部分を読み取ると、相当真剣で強い意思表示が感じられたのは確かである。
 
 その後、彼は実際に、子ども電話相談室に「電話をした・しない」を私には告げなかった。彼はそのまま口を閉ざしていたし、私もそうした彼の内心の重々しさを完全に理解することができていなかった。むしろこの件に関して私は、〈大したことではない〉と勝手に決めつけてしまっていた。彼の恋の悩みに、ほとんど関心がなかったのである。
 それから同じ中学校に通うようになって、だいぶ経った頃、あの彼が「ある男子生徒を好きになっている」という噂話を、別の友人から私はこっそり聞いたことがあった。この時初めて、子ども電話相談室に電話しようとしていた彼の内心を悟ったような気がした。あの時彼は、こういった誰にも言えない悩みを抱えていて、電話相談を思い立ったのではないか、と私はようやく気づいたのだった。
 
 しかし、だからといって私は、どうすることもできなかった。いや、この言い方は適切ではない。実際には、どうしようとも思わなかったのだ。その親密な友人だった彼に対し、恋の悩みで話し合おうとは思わなかったし、したとしても解決できそうな気がしなかったからだ。彼はひょっとすると相当、苦しい思いをしているのではないかといった想像力すらなく、消極的な自分の態度の方にこそ、実は問題があるのだということも、私自身はさっぱり気づいていなかったのである。
 

LGBTが生きづらかった時代

 こうした昔話が、今の思春期の子ども達に、何の役に立つであろうか――。いま振り返ってみると、明らかに彼は、いわゆるLGBT(Lesbian,Gay,Bisexual,Trancegender)という性的マイノリティ(性的少数者)の立場に立たされ、「自己の恋愛対象者が同性である」ということに気づき悩んでいた――と考えることができる。私が知る限り、彼がそのことで校内でいじめに遭っていたとか、言葉で馬鹿にされたといった事実は、噂話として上らなかったことを考えると、まことに幸いにしてなかったのではないかと推測できるのだが、本当のところは誰にも分からない。
 
 あの頃80年代後半は、今の時代とはだいぶ違う――と思う面もある。高校へ進学するということが、たいへん競争率の高い難題であるという精神的なプレッシャーが、生徒はもちろんのこと、教師にも保護者にもあった。したがって受験とは無縁の、家庭科や保健体育における性教育がおざなりに扱われ、思春期の子ども達の性的マイノリティに関するメンタルなケアなど、考えもしない時代であった。
 
 男が女を好きになり、女が男を好きになる、というヘテロセクシュアル(Heterosexual)の指向がさも当然といった空気の中で、性的マイノリティがそこに居て一緒に馴染んでいけるだけの、多様な性的指向の通念が“かけらもなかった”時代。中学生が今日のようにセクシュアリティについて学ぶ機会などなく、自分の性的指向について正面から向き合って考えてみたり、他者の性的指向がもし、自分のそれと違っても、何もおかしいことはないのだという思考が根本的にないから、性的マイノリティが、同じ仲間で溶け込もうとするためには、自分の性的指向を隠し続けなければならなかったのである。
 
 人の生き方の多様性というものは、想像するより、もっともっと大きくて広いもの――。そういった洞察力も、人の心を受け入れる包容力も、恥ずべきことにまったく欠けていた10代の頃の私。あの時、彼の恋の悩みにほとんど耳を傾けなかったことを、今更ながらとても悔やんでいる。たいへん申し訳ないことをした。悩みがあって生きづらいと感じる仲間がそこにいたにもかかわらず、私はいったい何をしていたのだろうかとさえ思う。只々物事から逃げ回っているだけで、何も直視しようとはしない未熟な中学生であった。
 

「性の多様性を考える」という新聞記事

 6月12日付の朝日新聞朝刊に、「金沢大入試問題から 性の多様性を考える」という記事があったので読んでみた。これを書いたのは、埼玉大准教授の渡辺大輔氏である。大きな見出しで「自らの性学び『対等』であるために」ともあった。
 金沢大の入試で今年の春、同性愛者を描いた漫画が題材となったという。学生の立場として、性的少数者とその多様な性のあり方についてどう向き合うのかが問われる出題となっていたらしい。
 題材となった漫画は、田亀源五郎の『弟の夫』(双葉社)。主人公の亡くなった双子の弟の結婚相手(カナダ人の男性)がやって来て、近所の中学生の子がそのカナダ人の彼と知り合い、自らの性的指向(この場合は男性同性愛者)をカミングアウトする。こうした漫画の資料が試験で提示され、具体的な提言を700字以内で述べよ、といった出題であったという。
 
 記事では、「いのち リスペクト。ホワイトリボン・キャンペーン」「LGBTの学校生活に関する実態調査 2013」の報告書についても触れられており、早速私はその資料を入手して、報告書の内容をじっくりと見ることができた。この調査は2013年10月末から12月末までの2ヵ月間にわたり、ネット上のアンケート方式を用いておこなわれ、対象者はLGBT当事者と、そうかも知れないと思っている人。10歳から35歳まで。小学生から高校生のあいだに、関東圏で過ごした人。そうした対象の人達の、学校生活における様々な事柄についてを統計化したものである。
 
 記事の左隅には一点のみ、例としてその報告書の結果が示されている。「非異性愛男子が小学生から高校のあいだにいじめや暴力を受けた経験(複数回答)」のグラフがそれ。これを見ると、「いじめや暴力を受けた経験がない」人の数より、何らかの「いじめや暴力を受けた」人の数が圧倒的に多く、そのうち、「言葉の暴力」を受けた人の数が約半数を占めている。報告書の中のさらに詳しい統計(性別違和のある男女別、非異性愛女子を含む)を見ると、結果の数字にはそれなりのばらつきがあり、例えば女子の場合、「無視や仲間はずれ」にされる人が多いことが分かる。
 

弱者の位置づけではない「対等」の時代へ

 性的マイノリティを弱者と受け止め、それを擁護していく社会(学校や職場、ありとあらゆるコミュニティの場)という構図は、必ずしも適切ではない。そんな社会は誰も望んではいない。記事の中で渡辺氏は、それに関して懸念する問題を示唆している。
《大事なのは、人権課題として抱える困難にきちんと目を向け、学校のあり方を見直すこと。その上で、生まれた時にあてがわれた性別のまま生きる「シスジェンダー」も異性を好きになる「異性愛」も含めて「性は多様である」ということを学ぶ視点です。少数派を特別な存在として「付け足す」ことは、多様性の尊重とは異なります》

(6月12日付朝日新聞朝刊「性の多様性を考える」より引用)

 
 多数派が少数派を受け入れる意味とは、本来的に、多様性を認識すること(溶けて混ざり合うこと)にこそあり、少数派を「付け足」しつつ依然として「分化された状態」のセクシュアリティの社会基盤を、飾り付け的な未来志向で構築していくことでは決してないのだ、というようなことを渡辺氏は述べている(と私は思っている)。渡辺氏は次のような事例にも言及している。
《東京都内の中学校で授業をしたことがあります。「同性愛」「性同一性障害」という言葉は多くの生徒が知っていますが、「異性愛」は半数しか知りません。異性を好きになることを何と言うのか尋ねたところ、返事は「フツー」。同性愛と異性愛が、対等な言葉として伝わっていないのです》

(6月12日付朝日新聞朝刊「性の多様性を考える」より引用)

 
 それはたいへんわかりやすい事例であるかと思われる。子どもたちの「フツー」という観念において、同性愛者は「フツー」ではない、ということになってしまっている。何故このような問題が起きるのかということを、しっかりと理解しておかなければならないのではないか。
 
 「性の多様性」のあり方を根本から理解することと、それを人権尊重の観点で「容認」するといった場合とでは、かなり認識に開きがあるどころか、危険な誤解を招くおそれすらある。危険な誤解とはつまり、こうした論理である。同性愛者は「フツー」ではないが、昨今の「性の多様性」の観点から、同性愛者という性的マイノリティを同じ社会で「容認」し、受け入れなければならないのだ、と――。
 そうではないのだ。私たちはこれまで、人権の理念はすべての人が「対等」であることだということを忘れ、その権利を履き違え、いい加減に扱ってきたのである。セクシュアリティにおいては、少数派を差別し、彼らは「フツー」ではないとする間違った通念を助長させてきたのだった。彼らはヘテロセクシュアルと同じ「フツー」の人である。私たちは人権の理念に沿った行動をすっぽかし、性的マイノリティを「外側にいる人達」という目で勝手にとらえていた。これは大きな誤りである。
 
 人権によって守られる社会とは、人を「付け足」したり、「フツー」の人ではない人を擁護しながら共生することでは、そもそもない。今後の学校教育においては、すべての人が「対等」であることを再認識させる学びが、必要ではないだろうか。

〈了〉

6月12日付朝日新聞朝刊より

「LGBTの学校生活に関する実態調査結果報告書」のある統計結果

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