筋肉質のキューピッドと夜の参考書
「包茎」に対する理解がお粗末な日本
つい先日のNHKのニュース。全国の18歳と19歳を対象におこなった世論調査で、14%の人が終戦の日を「知らない」と答えたという。これを受けて専門家は「危機的な数字だ」として、学校での歴史教育の重要性を指摘した。
固定電話での世論調査ではなく、無作為に抽出した18歳と19歳が対象の1,200人に「郵送」で依頼し、そのうち503人から回答を得たものだという。わざわざその郵便物を開けて読み、手間暇をかけて回答を送り返したのだろうから、ある意味こうしたことに関心がある若者達であろう。積極的に調査に参加したことになるわけで、そうした人は普段の真面目さや几帳面さが窺えるのだが、それにもかかわらず、その人達が答えたうちの14%=100人に14人の割合で、終戦の日を「知らない」というのは、やはり「危機的な数字だ」ということなのだろう。もし街頭などで無作為に(若者を対象に)同じ質問をしたとしたら、さらに驚くべきパーセントで終戦の日を「知らない」のではないかと推測する。
ということで話を転化してみよう。つまり、このような世論調査でもし、「包茎」について正しい知識を理解しているかどうか、諸々の詰問で若者に訊ねたとしたらどうだろう。それこそ驚くべき数字で、「包茎」について理解していない人が多いのではないか。
この分野でもやはり、専門家が学校での性教育の重要性を指摘する事態となるだろう。というか、現にそういう事態なのだと認識した方が良さそうだ。尤も、性教育で特に重要なのは、男女の性機能を正しく理解し、避妊の仕方を心得ているかであって、「包茎」については二の次、三の次なのは確かである。しかしこの手の問題で、教師が性器の名称を読み上げるのに恥ずかしいとか下品だとか、下ネタだとか、なかなか露骨な図を見せるのはどうなんでしょうか?なんてことを言っていられないくらい、日本ではその知識と理解がお粗末なのである。
大人のペニスへの幻想
これも諸処の世論調査で明らかになっていることだが、近頃大学生が本を読まないらしい。若者が本を読まないのはいつの時代でも言われていることなので、とやかく言及しない。私が20代の頃だって、君達は本を読んでいないなと、あちこちの大人に言われていた。読みたくてもお金がないからたくさん本を買えないのだ!と言い訳するのがちょうどいい。
だがなんとなく、その頃、書店でパラパラと立ち読みして思わず買ってしまった本というのは、決して少なくない。伴田良輔氏のエッセイ本『愛の千里眼』(河出文庫・河出書房新社)は、その度合いが濃厚で記憶がいまだ鮮明である。その中のエッセイ「震える盆栽」が秀逸で、ピンナップの複写による、女性の陰毛のクローズアップ写真に思わず色めき立って、この本を買ってしまったのである(私の文芸ブログ[Utaro Notes]の「『震える盆栽』を読んだ頃」参照のこと)。
この本をよく読めば、大したことは書かれていない。書かれていないが、度肝は抜かれる。「筋肉質のキューピッド」というエッセイでは、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画『プレデター』における肉体論が展開されているのだが、それとはあまり関係なしに、薄汚れたモノクロ写真がいくつか掲載されてあって、そのうちの1カット、「両腕を縛られた男性の全裸」を見た時、衝撃が走った。
私がその本を買ったのは、20歳になったばかりの学生時代である。陰毛の陰から一房の果実とも思えるペニスが突き出てなんとも麗しく、これがまさに大人のペニスの、“「包茎」ではない”理想形の象徴なのだと直感した。それまで思春期の頃にもやもやとしていた、不可解なままだったペニス像が、その写真を見たことによってすべて氷解し、何故か晴れやかな気分になったのだ。いみじくもそれはまだ、「包茎」を忌避したペニスに対する幻覚幻想のたぐいではあったが――。
《人間のセックスが動物のソレと違うのは、生殖を離れて快楽のみを目的として主にソレを行うからというのが、性を語るときの、“決まり文句”(クリシェ)となっているが、私はむしろこう言い換えたい。「人間とは生物の中で唯一、セックスをする際に参考書を使う生物でアル」。ざっと生物界を見わたしてみても、これほど長期にわたり、絵であれ文字であれ、性の技術を参考書化し、それにのっとってセックスをしてきた生物はいない》
まさにこの本との出会いが、私にとってある意味での“夜の参考書”であり得たし、伴田良輔という作家の、性と愛にまつわる言説への関心の第一歩であったと言いたい。しかし、文学の世界だけでは、性は理解できないのである。