パリのエコロジカルな公衆トイレ―立ち小便の作法を考える
パリの街に「ユリトロトワール」が出現!
私がデュシャンのあの有名な、「泉」(Fountain)と呼ばれたフィラデルフィア美術館蔵の男性用小便器(urinal)を東京の国立博物館で“拝謁”したのは、昨年の10月のことであった。いわゆる“レディ・メイド”論争における芸術の再定義とその価値観を逆手に取ったオブジェであったけれども、白い陶器のあれ自体、非常に美しかった。工業製品としての芸術的価値は高い――と私は心底、そう思ったのを憶えている。
一方、度肝を抜くようなこちらのトイレの姿に、私は唖然となった。この報道がネット配信されたのは昨年の8月でありながら、私はそれをごく最近まで知らなかったことを少々悔やんだ。
8月14日付AFPBBニュース(生活関連)によると、フランスのパリにて、奇妙な形をした箱型の「男性用小便器」が試験的に街に現れ、大変話題になったようである。それは「ユリトロトワール」(uritrottoir)と名づけられたエコロジカルな小便器で、材質はおおむねアルミ製。上部は赤い色をしていて、外観はどう見ても公衆用のダスト・ボックスである。内側に堆肥となるわらが詰められているらしく、水を使わず乾燥して悪臭もないとのこと(画像を見たところ、ものによっては雑草が生えているのもある)。
俄に信じられないのは、この奇妙な小便器の中央のU字形の縁が、立ちションの受け口となっていて、街を歩く男性らがひょいとここで立ちションをしていくこと。「ユリトロトワール」の設置場所があまりにも唐突で、リヨン駅の近辺、セーヌ川沿いなどといった場所で公衆の面前に立ちはだかる遮蔽物は何一つなく、正真正銘本物のダスト・ボックスの隣に無造作に設置されていたりする。スペール! と、街ゆくフランス人の老若男女が皮肉を込めてそう言うかどうか想像するしかないが、この公衆用小便器には、排泄する側とそれを目視してしまう側のプライバシーたる配慮がまったくなされていないのである。
それってエコ? でも衛生的でない?
昨年の10月にほとんど奇跡的に観ることのできた、デュシャンの「泉」にひどく感銘を受け、あるべき小便器の未来像(これを別の言い方にすれば、男の浪漫)を思い描いていた私にとって、「ユリトロトワール」の超常的なエコロジカルな姿――パリの街中に無造作に設置された、ただの赤い箱――は、まさに青天の霹靂であり、衝撃的な事物の国際ニュースという以外何物でもなかった。付け加えておくと、このニュースは決してフェイク、ではない。
「ユリトロトワール」を製作した、フランスの工業デザイン会社ファルタジ(Faltazi)のエコロジカルな姿勢には、私自身、敬服する面がないこともない。少なくとも「水を使わずに堆肥にする」というエコとコスパで最適なアイデアには賛同し得る。しかし、男性の立ちション姿を街中に無遠慮に晒すexcellentなスタイルには、讃辞を述べたいとは決して思わない。うーんこれ、どうなの? という感じであり、明らかに文化の違いの問題を通り越している、ような気がする。
まず何より、手を洗うための水洗設備が設置されていないことと、利用者が果たして皆きれいに、しっかりと受け口のど真ん中を狙って小便をしてくれるかどうか、かなり怪しいものだ。
例えば酔っ払った男性が受け口以外に小便を引っ掛けた時、それは悪臭の元になるであろう。それが一人ではなく、多数いたとしたら? そうした赤い箱の「ユリトロトワール」が清潔なアイテムではなく、不衛生で愚かしいエコロジーの産物の象徴になりはしないかどうか、一考の余地があるのではないか。現にリヨン駅近くの「ユリトロトワール」の画像をよく見ると、地面になにか液体が漏れて広がっているのが分かる。あれっていったい、なんで濡れているのですか? と誰かに訊ねたいものだ。
ヨーロッパでは「仮設小便器型公衆トイレ」が流行っている?
ところがどっこい調べてみると、ヨーロッパの各国では――必ずしもそれがエコロジカルな着想ではないにせよ――この手の仕切り壁のない公衆用の「男性用小便器」のたぐいが、どうも当たり前のように設置されていたりするらしい(例えばベルギーとか)。陶器製ではない樹脂製の、いわゆる仮設小便器型公衆トイレが、流行り始めている(需要がある)のだとか。よほどそういった国では、所構わず立ちションをする男性が多いというのか。
これらは、水洗設備などを一切省いているから、複雑な設置工事をする必要も維持費もかからない(日没後の利用のための照明器具の光熱費はかかるか?)が、小便器の内側のタンクに小便を溜め、くみ取り方式なので担当の部署の人なり業者の人なりが回収しにやってくるのである。そういうことであっても維持費がかからないと言えるのかどうか。
昔日本は水洗トイレではなく、くみ取り式の便所であったから、市町村の委託業者がバキュームカーで糞尿の回収で地域を周回していた懐かしい光景を思い出す。むろん、水洗式でない地域(区域)では未だにそうである。
果たして、そういう旧来の排泄施設に似た形が21世紀に相応しいエコで経済的あるいは衛生的なシステムと言えるのかどうか、私には専門知識がないから判断できない。
だがいずれにしても、そういった仮設小便器の公衆トイレには、水洗設備がないため、悪臭を放つであろうことは誰でも想像できる。小便そのものは成分的に汚いものではない。が、便器から漂ってくるあの強烈なアンモニアの臭いが好きな人は、ごく少数派であろう。臭いトイレに不快を感じる人は圧倒的に多いはずだ。
手を洗わずしてどこを洗う?
手を洗わずに用を済ませて平然としていられる人は、こういう仮設型の小便器に対して何ら抵抗はないのかも知れない。しかし、尿で濡れたペニスをつまんだその指で箸を持ち、あるいはナイフとフォークを持ち、ワイングラスを高々と持ち上げ、うーん美味しいこの料理は! とありふれた大人の日常を演じきる紳士の隣で、奥さんが、彼のそれを知っていて見ぬふりをし、なおかつこまやかで優しい態度で彼の紳士ぶりに応対しているのであれば(それがとても苦痛でなければ)、さぞかし、その慎ましやかな家庭生活の未来というのは、永劫清く素晴らしいものであるに違いないのだ。
ただし、食事をしている隣の彼がなんだか、そわそわしていてとてもおしっこ臭いわと気づく頃に、その紳士的な彼の指使いで日頃激しく愛撫されている自分の身体の無自覚ぶりにも気づくであろう。いえ、私も彼と同じ、手を洗わない派なの、と告白してくれることを世の男どもは、半ば夢想的に期待して待っているのである。
時代はエコ優先でプライバシーはどうでもいい?
閑話休題。パリの「ユリトロトワール」の存在感はやはり別格かも知れない。ほとんどそれは、常識的なダスト・ボックス(「ユリトロトワール」の寸法は幅120センチ、奥行き61センチ、高さ110センチ)の姿であって、普通に街の歩道の片隅に試験用として設置されているのだ。しかもそれは街の中で平然としていて、便器の周囲には一切壁がなく、小便器として当たり前になされていて欲しい「受け口を覆い隠す工夫」すら、ない。
路上で直接立ちションをするよりはまし、との意見もあるようだが、「ユリトロトワール」を利用した時のその光景自体は、地べたや壁に向かって立ちションをしているのとさほど変わり映えがなく、人の排泄行為が無遠慮にさらけ出されてしまっている。果たして本当に、パリの街を行き交う男性らは、この「ユリトロトワール」で立ちションをしたいと思うのであろうか。ちょっと私個人の感覚では、信じられないのである。
尤も、このニュースの主旨は、パリ市民の不満を報じたものである。高級住宅地(サンルイ島)にこれを設置するなんて、という反発だ。高級であろうと低級であろうと、と私は思うのだけれど、地球の環境に配慮するエコロジーの思考と施策が、人の排泄の仕方の是非にまで言及され、それが結果として人に対し無配慮・無頓着な方向になっていくのであれば、プライバシーといったものは人権のうちの最も低い要求だという、古き悪しき時代へ逆行しかねない事態と言える。未来志向のトイレの在り方に関しては、もっと冷静に、あらゆる側面から総合的に考え直さなければならないのではないかと、思うのである。あくまで、人と街と自然とが豊かに共生する方向で――。
人によってこの「ユリトロトワール」に対する見識は違うだろう。私自身は、エコの部分はいいが、公衆の面前で露骨に用を足すスタイルには、耐えられそうもない。日本ではかつて、トイレ以外の場所で平然と立ちションをする人が、多くはなかったが少なくもなかった気がする。しかしそれでも、どこか人通りがない場所であったりとか、裏手に回って、といった心理的作法があったはずだ。
もし、2020年の東京オリンピックの各会場にて、「ユリトロトワール」が出現したとしたら、どうであろうか。おそらく、いろいろな意味で大混乱になるに違いない。やはり私としては、あの濡れた床が、気になるのである。