特定の人を好きになる―それが異性であっても同性であっても
同性「パートナーシップ宣誓制度」茨城県でも
今回のテーマを書く直前に、飛び込んできたLGBT関連のニュースについて――。
今月24日、茨城県の大井川和彦知事が、「パートナーシップ宣誓制度」を7月1日から導入すると発表。こうした制度を都道府県で導入するのは初めて、というニュースを6月25日付の朝日新聞朝刊で知った。
茨城県の「パートナーシップ宣誓制度」は、性的少数者のカップル(一方または双方)が県に「宣誓書」を提出し、県が「受領証」を交付するというもの。新聞の記事によれば、県営住宅への入居申請の受付、県立病院などでの面会や手術の同意などを家族と同等とする、といったことで、県内の市町村にも、同じように公営住宅入居申請や公立病院などでの対応が可能となるよう求めていくという。
導入方針についての知事のコメント、「こういうことにしっかり取り組んでいくのが世界の潮流」――。生きづらいと思うマイノリティの一助となれば…。全国の都道府県でこうした取り組みが広がることを期待して已まない。
小学校の教科書に性的少数者の記述
さて本題。LGBT(Lesbian,Gay,Bisexual,Trancegender)に関すること。
前回の「LGBTと性の多様性から学ぶべきこと」では、金沢大の入試で出題された、性的少数者(性的マイノリティ)とその多様な性のあり方についてどう向き合うか、そうしたマジョリティの「マイノリティに対する偏見や差別」をなくす教育現場の課題について取り上げた。学生間に限らず、職場や公共の場において、セクシュアリティに対する進歩的な環境づくりが重要となってくるため、子どもたちにそれをどう教えるべきか、これまでの指導を見直す部分があると思われる。
そうしたことで、今回取り上げるのは、小学校の新しい教科書のこと。6月17日付朝日新聞朝刊の記事「変わる小学校の体育教科書 性的少数者の記述■がんは手厚く」を読んで、内容を大まかに知ることができた(※たいへん恐縮だけれども、がんについてはここでは割愛させていただく)。
要約すると、来年度からの小学校の新しい体育(保健)の教科書に、性的少数者(性的マイノリティ)についての記述が盛り込まれるとのこと。ただし、それはどうやら、光文書院と文教社の教科書のみであって、扱った教科書は少ない。前進ではあるが、まだまだ小さな一歩であると言わざるを得ないのが、日本の公教育の現状である。
光文書院のホームページにアクセスしてみた。サイトでは、2020年度から新しく導入される、小学校の保健教科書の解説資料が、PDF版でダウンロードできるようになっている。
解説資料のPDFを開いて内容を読んでみると、4年の保健教科書の「思春期の体の変化」で、「『性』についてのなやみ」というコラム的な枠があり、そこに、
《自分の「体の性と心の性がちがう気がする」と感じる人や、「異性に関心がもてない」と感じる人いるかもしれません。自分の性のことで、ほかの人とちがうと感じたり、不安なことや心配なことがあったりしたら、あなたが信頼している大人に相談してみましょう》
といった記述が確認できた。LGBTといった言葉は扱っておらず、あくまで、自分の性のことで違和を感じたら、信頼できる大人に相談しようという主旨である。
一方、文教社のホームページにも同様の解説資料PDFがあった。5・6年の教科書『わたしたちの保健』の「心の健康」の単元では、《自分の生まれた性別と心の性別が一致しない子どもからの相談内容を記載し、寄り添うことが大切であることを理解できるようにしています》とあった。
様々な事情があるのだろう。ざっくばらんに言うと、教科書に掲載される記述としては、非常に物足りず、もどかしくもある。学校によっては、するりと遠回しな言い方で、この手の話から逃げる先生(あるいは逃げ腰の指導方針)が出てきてもおかしくない。光文書院の方も文教社の教科書にしても、踏み込みが足りないという印象がある。
――もしそうしたことで悩んでいる友達がいても、それは「変なことでもおかしなことでもない」、もちろん「病気ではない」のだから、冷やかしたり悪口は絶対にダメ、できたら親切に悩みを聞いてあげよう――といったアドバイスにまで踏み込んでいない点、私個人の意見としては、残念に思った。
困っている子がいたら助けてあげるといった主体性の大切さ、それがお互いの自己肯定感を高めることにつながり、セクシュアリティに関して違和を感じる子がいること、そうした子は必ずしも性的少数者であると決めつけないで、むしろ子どものうちから、身近なところにそうした子が少なからずいることを、当たり前のように感じてもらうことが大事なのではないか。教科書で足りない面は、指導する先生からのおはなしとして説明し、子どもたちに理解してもらえればいいのではないかと思う。
そもそも好きになるということは異性も同性も関係ない
新聞記事の中で、『先生と親のためのLGBTガイド』(合同出版)の著書・遠藤まめたさんが促しているように、教科書の記述として、「性別が心と体で一致しないこと」や「異性に関心がもてない」ことを否定的(それを異常としてみるマジョリティの偏見)にとらえるのではなく、同性を好きになることもあるといった表現が望ましいと注意している点は、確かに頷ける。
特定の人を「好きになり感情が熱っぽくなる」ことが増える思春期において、その人が異性であろうが同性であろうが関係なく、すべてまっとうな「好き」の感情なのだということを、まず子どもたちに伝えるべきである。古今の学習指導要領において、「異性への関心に芽生える」という言葉にあまりにもとらわれすぎていたため、マジョリティがLGBTに対して偏見をもつ作用が働いていたことは否めないだろう。それを根本から見直すのである。
思春期の包括的な性教育で大切なのは、この時期、とても子どもたちは自分の心と体(の変化や生理)に関心が及び、また同時に他者の心と体(の変化や生理)にも関心が及ぶ。執拗とも言うほどに。
だがそれが当たり前なのであって、その熱っぽさの一つが、「身近な特定の人」を「好き」になるという感情だ。本来的に、とても素晴らしいことなのである。もしそれが同性の人であったとしても、なんら否定される問題ではないことが通念として理解されていれば、そのことだけで生きづらさを感じることはなくなるはずなのだ。
尤も、異性であろうと同性であろうと、恋の成就のハードルは、決して低いものではないのはどちらも同じ。そこの部分は、双方のマナーとプライバシーとハラスメントの領域を含んだ、まったく別個の問題である。
学校で恋について教えてくれる先生がもしいたら、それはどんなに豊かで包容力のある先生であろう。恋は難しい。簡単なものではない。恋をするとは結局のところ、相手に対してごく小さなハラスメントを起こすことであったりもする。関係性がやや少し波乱になるからである。
相手が好きと思ってくれていれば最高だが、逆に嫌いと思われていることも多々ある。だからいつも恋は双方が傷つきやすく、たいへんで面倒で難しい。だが、たいへんで面倒で難しいからと言って、何ら恋で波乱を起こさずに一生をやり過ごそうと思っている若い人がいるのなら、それはもしかすると、不幸せなことかも知れない。だって恋はとても素晴らしいことなのだから。
〈私は異性だけが好き〉、〈ぼくは同性だけが好き〉、〈わたしは異性も同性も好きじゃない、だから恋はしないよ〉、と早くから決めつけない方がいい。これに関してはちゅうぶらりんのままモヤモヤしていた方が、結局は生きづらくないのだ。
何も性別で恋をするわけじゃない。好きなその人がたまたま異性だっただけのこと、あるいは同性だっただけのこと。いままで恋をしなかった人は、たまたま好きな人に出会わなかっただけかもしれない。だから自分はかたくなにこうだ、と決めつけない方が、はるかに生きやすい。
そしてもっと生きやすい方法がある。これは私個人の経験による、若い人に対する最大限のアドバイスなのだけれど、自分の好きな人を、他の人に安易に教えたり告白しない方がいい。なんとかごまかして、秘密のままがいちばん良いのだ。
何故なら、他人は、異性だろうと同性であろうと「恋をしている」あなたに対して、無意識にジェラシーを覚えるものだから。例えば、LGBTだからといって偏見をもつ人の多くは、そのLGBTの相手にジェラシーを感じているんです。恋をしたくてたまらない人ほど、嫉妬深くて他人の恋に寛容ではないのです。
だって自分が本当の恋をしている人なら、他人の恋なんかにいちいちかまってられるわけがないのである。人を好きになって熱っぽくなっている最中というのは、とたんに自分のことで忙しくなり、たいへんで面倒で難しい恋を四六時中抱えているのだから――。