の話。
寝た子を起こせ。これは一生に関わる大事なことなんだから。

知らないことは美徳か?―男子は可及的速やかに正しい性知識を

2018年11月3日

子どもが知りたいことを速やかに教えるのが性教育

 確か小学5年生の頃、女子児童だけを教室に集めて「月経」の授業をしていたのを、男子の私は他の教室で“待機”していたことで憶えている。他の教室で“待機”していた男子児童は、女子の授業が終わるまで、片手間程度に男子の性の授業を受けたのではなかったか。
 それは、あくまで、思春期になると「射精」をする、くらいの話だったような気がする。ペニスが「勃起」して刺激を与えると「射精」、というメカニズムは省かれ、単に、思春期になるとペニスが「射精」することがある、といったような説明だけで「勃起」とか「自慰」は話に出なかったような。80年代のまさに片手間な性教育であった。
 
 いま考えると、性教育に関しては、そんな中途半端な授業というのがいちばん怖い、と思うのだ。授業を受けた側がただなんとなく、男子と女子のからだの性のことを知った、という漠然とした知識なのがいちばん困る。子ども達同士の、勝手な推測や非科学的な嘘が入り込むから。
 どうせ何も教えてくれないのなら、いっそのこと、(私の学校ではこまかく教えるとあちらこちらでうるさいので)何か分からないことがあったら、ここを調べてくださいね、ここを訊ねてくださいねという内容の、性の相談窓口を記した手引きのプリントくらい作ってくれよ、と思ったりした。性の授業なんてほとんどノートに取らないだろうから(ノートに取られると先生がどんな話をしたかがバレるから?)、あとで何が何だったのか余計に分からなくなるのだ。
 
 子どもの側からすれば、性については、言わば迷宮に陥ったときの、こじ開ける切り札=鍵をもっていれば、その人は救われる。しかし子どもの側が何か分からなくなってSOSを発しているのに、大人はそれっきり、それじゃ困る。女子の「月経」についてはいたり付くせりの感あり。でも男子は、「自慰」「包茎」に関していつまでも置いてきぼりだ。それが日本の性教育の実際である。
 男子にとって、「自慰」とか「包茎」は謎に満ちたミステリーと言っても過言ではない。知らないことだらけなのだ。子どもだけで考えても分からないことが多い。自分で何年も考えてようやく「包茎」のことが分かりました、セックスをやり始めてからやっとコンドームの付け方が理解できました、では済まないことがある。迷宮に陥った際に、鍵をもたずして子どもが先へ進もうとするのは、大いに危険だ。自分の知っている性の知識が、本当に正しいものかどうかも分からない。それでセックスに突っ走ってしまったらどうなるか。もしかすると愛するパートナーを、心身ともに傷つけてしまうかも知れないのである。特に男子は要注意だ。

男子生徒に教える「性の授業」の取り組み

 去る10月22日付の朝日新聞朝刊に、「正しい性知識 男子生徒に伝える」「高校で授業『豊かな関係を』」という見出しの記事が掲載された。高校における、男子生徒向けの性教育の取り組み例についてである。
 この記事の主旨は、これまでどうしても日本の性教育が女子の性の学習指導に偏りがちであることを危惧し、とりわけ男子の性の学習指導がおざなりになっている点を挙げ、高校の男子生徒に向けた男子の性に関する授業を、いくつかの高校の授業の参考例として取り上げているものだ。
 
 これを最初に読んだ私は、あくまでこれは高校の男子生徒の性の授業であるけれども、できれば小学校の男子児童で同じ様な性の授業をおこなって欲しい、そうでなければ遅すぎる、小学校で同じ様な授業をしている事例は全国のどこかの学校であるのだろうか知りたい、ということを思った。
 ちなみに、日本の性教育はこれまで、2002年以降の“過激な性教育”と揶揄された性教育バッシング(特に2003年、東京都立の養護学校の性教育バッシング)を背景に、指導要領には盛り込まれていない「性交」はもとより、男子の「勃起」「射精」「自慰」「包茎」、さらには避妊のための正しいコンドームの付け方といったことを詳しく教えない傾向がある。公教育現場における女子の性を学ぶ機会と比較して、男子の性の学習の取り組みがまことに貧弱で疎かなのだ。このことに危機感を抱いたであろう高校では、記事の中の事例にある通り、男子生徒に向けた性の授業として、「自慰」「射精」「包茎」に踏み込んだ学習指導をおこなったという。
 
 具体的に記事を例に挙げると、たとえば、港区の麻布高校の取り組みでは、男子の性教育に詳しい村瀬幸浩氏を招いて講演し、“アダルトビデオは男のファンタジー”といったアダルトビデオの虚構性や性暴力について触れ、偏った性情報の氾濫や人権性の多様性について学習指導。世田谷区の大東学園高校では高校1年の「性と生」の授業で、男子生徒に「包茎」についてや「自慰」についての授業をおこなった。また、名古屋の南山高校の取り組みでは、「射精」について教え、2年生には正しいコンドームの付け方を教えたり、「避妊」に失敗した際の緊急避妊法についても教えているのだという。
 こうした男子生徒向けの男子の性の学習指導が、女子の性のそれと不均衡にならずに満遍なく、全国の学校で、できれば小学校のうちから速やかに、年齢に応じて必要な箇所の指導をおこなうことを私は望む。中学生に対してはより具体的な内容を盛り込むべきだ。何度も言うように、日本の公教育は性教育(包括的なセクシュアリティ教育)自体が諸外国と比べて非常に遅れている。そのうちの男子の性の教育がとてもおざなりとなっていて、女子の性の知識に追いついていないのが現状。男子はもっと、自分の性の「自慰」「包茎」について知らなければならないのである。

男子の「自慰」はセックスのための訓練

 前回の稿「奈良林祥の『性についての方法』―包茎と自慰の話」で触れている「自慰」については、奈良林先生独特の含蓄がある。これはとても大事なことだから、男子は皆知っておいた方がいい。
 「自慰」にともなう「射精」においては、それ自体汚らしいことでもなんでもなく、むしろ将来自分がセックスをするうえでの訓練という意味合いもある。公教育の現場では一部、何故か「射精」のことを「夢精」に置き換えて指導している向きもあるが、しっかりと正しく「自慰」すなわち自分でペニスを刺激して「射精」することを教えるべきである。
 「自慰」の経験があまりにも乏しく、いざセックスのクライマックスを迎えるとき、ペニスを挿入しただけですぐに「射精」してしまった、というような早漏では、パートナーとの快楽の慈しみは物足りなく思えてしまうからだ。ただし、もしそうなったときは、女性は優しくパートナーを精神的にケアしてあげて欲しい。いずれにせよ、セックス自体も経験を積んでなんぼ、という側面があるのは確かであり、これが奈良林流の「自慰」とセックスに関する考え方だ。
 
 「自慰」に関して奈良林先生の解釈で言えば、性器に刺激を与えるだけのつまらぬ手淫は訓練とはならず、むしろセックスにおいて悪影響を及ぼす、という。セックスはお互いを信頼したうえで、肉体と心の両面でセクシャルな昂揚を楽しむ行為である。言わば、愛の共同作業である。ならば、「自慰」においても、純粋に性的な空想をともなったものでなければならない。
 ただペニスをいじっているだけではダメだということ。性的な空想をともなわず、ただペニスをいじるだけの「自慰」は、本番でのセックスにおいて自分本位に陥りがちとなる。しかも生理処理としかとらえることができない無為無益な「自慰」を若い頃から続けた場合、相手を思いやる気持ちが欠けてくるので、愛の共同作業であるセックスの訓練とはならないのだ。

心と品格ある性行動を重んじよう

 ともかく「自慰」は、パートナーとのセックスを想定した、性的な空想をともなったうえでの性器への刺激行為=手淫と「射精」が大事なのだと、奈良林氏は説くのである。自分の性欲におもむくまま性行為をおこなうのではない、パートナーとのセックスをしっかりと自己認識し、想定(想像)して、性の欲求を押したり引いたりしてコントロールすることが、プライベートな快楽を愉しむ「自慰」においても必要なのだ、その訓練であると。独りであっても、自分の我が儘勝手し放題ではない、むしろ品位のあるオナニーこそが望ましいということになりそうである。
 
 できうるなら、「自慰」については学校でもこれくらいのことを教えてもらいたい。“アダルトビデオは男のファンタジー”とはよく言ったもので、まさにその通りであるけれども、プライベートな性行為の「自慰」も、相手とのセックスも、どちらも他人に迷惑を掛けない品位と節度ある性行動を目指す、そんな性教育があってもいいのではないだろうか。まずは何より、性についてもっと知ろう。生徒も性の勉強を、先生も性の勉強を、である。

〈了〉

2018年10月22日付朝日新聞朝刊「正しい性知識 男子生徒に伝える」

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