アンアンのSEX特集―新しい時代の処女喪失論
2019年の夏も、待ちに待った(?)雑誌『an・an』(マガジンハウス)の“SEX特集”号が発売された(No.2163 2019.8.14-21合併号)。表紙は、主演映画『劇場版おっさんずラブ ~LOVE or DEAD~』がこの夏公開され、今や売れ筋絶好調の俳優・田中圭さん。この号のビジュアル誌面は、田中圭さんと女性モデルとの絡みを演出した「しあわせな体温。」でたっぷり16ページも割き、その自然体の風貌と、時折ぬいぐるみのような愛くるしい表情を浮かべる、彼の深い魅力が伝わってくる内容となっている。女性ファンからの厚い信頼と人気度の高さが、今年の“SEX特集”号の田中圭さん抜擢ということになったのだろう。
“SILK LABO”の撮り下ろしDVD
『an・an』の“SEX特集”号でいちばんの人気を博しているのは、もしかすると、付録の方かも知れない。この号には、映像コンテンツとして、付録DVDが封入されている。付録でDVDが封入されているのも“SEX特集”号の恒例となっており、中身は、“SILK LABO”の撮り下ろしDVDである。
“SILK LABO”(シルクラボ)とは、牧野江里さんが2009年に立ち上げた女性向けアダルトDVDレーベル。今DVDのタイトルは、「愛はいつでもそこに」。3つのラヴ・ロマンスのエピソードには、“エロメン”3人(橘聖人、上原千明、東惣介)がそれぞれ出演し、ナイーヴなセックス・シーンを演じている。
ちなみに、“SILK LABO”の女性向けアダルトDVDについては、この手のジャンルとしては個人的にたいへん関心があるので、別の機会(別のページ)で紹介することにする。
変化の兆し?セックス指向は少数派に?
さて、今年の“SEX特集”号の中身。今年の標題は昨年と変わらず、「愛とSEX」。ここに、《触れあい、感じあう。ふたりの幸せな時間。》の副標題が加わっている。
雑誌『an・an』の“SEX特集”号っていったい何なの? ということに関しては、昨年夏の「愛はどこに?―アンアンのSEX特集」で既に触れているので、ここでは多く述べないことにする。今号の「愛とSEX」の誌面は、先の田中圭さんと女性モデルとのツーショットのカラー写真をビルボードとし、そこに短い文章が加えられていた。
《いちばん近い距離で、お互いの存在を感じられる時間。愛する人、そして、自分の心とカラダに耳をすまして、湧き上がる愛情の温度をじっくり確かめ合えたなら、知らなかったふたりの世界に出合えるかもしれません。シンプルな“しあわせ”を、いま改めて追求してみませんか。》
ならば、その“しあわせ”について考えてみたいと思う――。とりあえず、誌面を追ってみる。
ビルボードの次のページ、「愛おしいからこそ深まる関係。現代セックスのリアル。」のアンケート(20~59歳の女性300人へのセックスに関するアンケートで、ここでは20代と30代の回答のみ抽出している)の結果内容。このアンケート結果がなかなかリアルで興味深く、思わずはっとなってしまう。何故なら、現況の若者のセックスの実態(セックス観)が炙り出されているからだ。
まず、「セックスはどのくらい好きですか?」という詰問の回答。この回答結果をもし、肉食系男子が見たら、えー? 今の若い子って、そんな程度なの~? と、ちょっと驚いてしまうかも知れない。なかなかこれは、悩ましい結果だ。
20代では、「必要不可欠」11%、「好き」20%、「どちらかというと好き」30%。半数を超える人が「セックスが好き」だという意見であることが分かる。だが、その反面、「どちらでもない」と答えた人が、22%もいる。
同じ詰問で30代では、「必要不可欠」9%、「好き」16%、「どちらかというと好き」27%、と約半数に届いている。しかしながら、「嫌い」5%、「好きではない」13%、「どちらかというと好きではない」9%、「どちらでもない」20%、を合わせると47%といった具合に、これまた半数近い人が「セックスが好きではない」派なのである。
この結果から分かるのは、30代を過ぎると、女性はセックスに対する関心や感度が落ちる――ということなのかも知れない。セックスへの魅力が感じられないと言うべきであろうか。つまり、30代の女性は、現実問題として、あまりパートナーとのセックスで満足感が得られていないのではないか、ということが推察できる。これについては、別の詰問「現在のセックスに満足してる?」で、30代が「NO」と62%の人が答えていることでも分かる。
「経験人数は何人ですか?」の詰問のアンケート結果も、やはり肉食系男子からすればやや衝撃的で、現況の若者女性のクールな実態をよく表している。
20代を見ると、「0人」が圧倒的に多く38%、「1人」が19%、それ以上の経験人数になるとみな一ケタ台である。意外にも、「10~14人」が8%とやや多いのが気になる。
30代では、変わらず「0人」が25%と最も多い。次いで「10~14人」の18%。その次が「1人」の14%となっており、実際に付き合っている恋人の数とセックスの経験人数とが、ほとんど合致していない傾向にあるようだ。
恋人はいても、セックスはまだしていない人、あるいは、そもそも恋人がいないのでセックスはしていない人。そうした「しない派」が圧倒的に多い。そして、これの対極にあるのは、いわゆるセックス・フレンドがいて、不特定多数の人とセックスを「する派」。この数が意外に多い。
つまり、「しない派」はめっぽう多いけれども、不特定多数の人とセックスを「する派」もそれなりに多い。言わば、極端に「しない派」と極端に「する派」との二極化構造である。
今、若者の性病感染者が増えているのは、特定のパートナーに限らず不特定多数の相手(=セックス・フレンド)との性交渉の頻度が高い人が、一定数いるからだと思われる。彼らはまた、正しい避妊方法や性感染症予防の知識が著しく乏しい、という推測も成り立つ。ちなみに今号では、「安心すれば、セックスはもっと気持ちいい。 “わたし”のための保健体育。」というページを設け、「生理」「避妊」「性感染症」に関する正しい知識を学ぶことができるようになっている。
セックスへの関心が薄れていることの意味
この号で示されていたアンケートで、「セックスの研究や練習をしますか?」の詰問に、20代も30代も、6割以上の人が「しない」と答えていることに私は着目した。また、「セックスパートナーと、セックスについてどんな話をしますか?」の詰問では、20代も30代も「ほとんど話さない」と回答している人が4割近くあり、「友達と、セックスについてどんな話をしますか?」の詰問でも、20代及び30代の半数近い人が「まったく話さない」を選んで回答している。
ということは、いまだ、現代の若者でも、性やセックスに対して口を開くことは慎むべきだ、とか、恥ずかしいと思ってしまっているのだろうか。特にセックスに関しては、性欲に駆られて貪欲…どころか、ほとんど関心を示さない、その行為自体があまり好きではないとする傾向がある、ということが、今回のアンケート結果から読み取れる――。
ならば、これってもしかすると、もはや『an・an』の“SEX特集”号の意義すらも、危ういんじゃないのかと思えてくるのだ。果たして本当に、この雑誌の“SEX特集”号が果たす役割というものは、若い女性のあいだで浸透しているのであろうか。それはけっこう微妙な問題になってきているのではないか、とさえ私は思った。
確かに誌面では、いくつか例を挙げると「お互いをもっと感じるために。愛を深めて満たし合うテクニック。」と題して、愛するパートナーへの“ボディタッチ”、“キス”、“愛撫”、“体位”といったテクニカルな面を具体的に指南したページがある。また、「溢れるほどの愛を感じて…。私の心と体が満ちる瞬間。」と題し、キスや愛撫といった場面を男女のモデルさんを被写体に、再現して見せているページがあった。これなどは、実際的なセックスにおける事前の予備知識といった側面がある。
別の方面では、「気持ちよさも、体のケアも大切に。ひとりHのお作法。」という女性のマスターベーションに関するページも割いていたりして、むしろ若い男性向けの特集でこうしたようなセックスとマスターベーションに関することを取り上げてくれる雑誌があれば、と思うほど、『an・an』の「愛とSEX」は誌面として誇らしげで羨ましい限りなのだ。
が、一方で考えうるに、読み手の女性があまりセックスに関心がないとか、いちおう関心はあっても、実際的な話となると、誌面で言っているような内容と比較して、自分自身はそこまで追いついていけないわ――と思ってしまっているとなると、果たしてこれらのページは、本当に実際的な自分達のためのセックスの指南役として、意義があるのだろうかと、不安になってくるのである。若い女性のあいだで、男子の同性愛をテーマにしたマンガが非常に好まれている今の傾向が、それを予見させる。私はこういった「実際的なセックス」に関心がない若い女性の人達の現象を、とりあえず一言で、「性教育の見えざる壁」と称してとらえておきたいと思う。
「愛とSEX」は不毛の論義と化した?
セックスそのものが紙(マンガ)の妄想、あるいはウェブ上の妄想と化している面が濃い。いつの時代もそうであったように思われるが、今の時代はさらに特殊なような気がする。やがて妄想は実際的な自己体験へと発展していけばいいのだが、そのプロセスがどうも、今の時代は弱いというのか、そこの部分の想像力が欠如している。ともかく、そういう時代である。
『an・an』の“SEX特集”号の中身が、例えば今号の田中圭さんを媒体にして妄想の範疇でぐるぐると回っているだけ――。自己体験能力(未経験から実践へ)のリアルなレポートとしては受け止められてはいないのではないか――。そんなふうに私は懸念する。
先に述べた、テクニカルな面の指南ページ「お互いをもっと感じるために。愛を深めて満たし合うテクニック。」では、アドバイザーとしてAV俳優の一徹さんが協力しているが、映像作品の演出として「見せるテクニック」と、実際に相手が体で感じる、いわゆる「快感を得るためのテクニック」とが、果たしてどの程度齟齬がないものなのか? という疑問点が残り、紙の妄想化に拍車がかかる。むろん、セックスとは、お互いの快感を得るためだけではなく、子を産むための性交渉なのだという真摯な自覚がなければならず、その愛の矛先を確認し合う目的があることを忘れてはならないのだ。
新しい時代における、セックスを通じての、“しあわせ”について考察してみたい。
大人に差し掛かろうとする若い女性が、愛する人を見つけ、自分自身がその愛する人のパートナーとなり、自身の処女であった肉体を解放していくプロセス。それが「愛とSEX」論である。
昔から、“青春”という言葉があるように、好きとか嫌いとか、愛とか恋とか、恋人とか友情とかセックスとか、その手の事柄の経験上のプロとでも言うべき存在が、ずばり若者達であった。ひとたび大人が若者の恋愛にちょっかいを出せば、俺たち私たちの恋愛にいちいち口出しするな! と大人たちを諫める立場だったのが、若者達である。彼らには彼らの主体的な考え方があり、彼らなりの恋愛観念があったからだ。
ところが、時代が変わって、“青春”がもはや死語となり、若者達がセックスどころか恋をしなくなったのである。彼らはその手のプロではなくなり、「愛とSEX」論は若者達のあいだでまったく通用しない、語られなくなった不毛の論義と化してしまったのである。
そもそも、雑誌『an・an』の“SEX特集”号は、女性のセックス・ライフを高めるためのものであった。読者層である一般的な若い女性達が「セックスに対してどういう関心を抱いているか」を、アンケート調査や取材などで示しつつ、パートナーとの身体的コミュニケーションの裾野を広げるチュートリアル、これを古い言い方で表現すれば、まさに「セックス指南書」になるわけだが、そういう役割をこの特集号では果たしていた、はずであった。
しかし近年、日本の若者達が、セックスそのものに魅力を感じていない、関心を抱いていないと思われる調査結果が、例えば今回の誌面のアンケート結果からも読み取れるだろう。それどころか、セックスは、子を産むための必然交渉の部分も含め、お互いの愛情を高めるための身体的コミュニケーションであることすらも失いかけている。ずばり言うと、多くの若い女性は、既にこの雑誌の“SEX特集”号を、本当の意味で充分に楽しめていないのではないかと思うのである。
新しい時代の“しあわせ”なセックスとはなにか?
昔、若者の男子には、「セックスの経験がない」――つまり童貞であることへの強いコンプレックスがあった。童貞者を別の言い方で「女を知らない未熟な男」と揶揄し、見下す材料とされてきた。
だから中高生は特に、早くセックスをして童貞からおさらばしたい――という願望にとらわれすぎて、相互の愛を高めることなく、むしろ自己満足的に自分自身の欲求不満を解消するための女性への猛烈なアタック&アピール合戦を繰り広げていたのだ。
その行動の賛否はともかくとして、セックスに対しては強い関心があった。友達とはセックスについて議論し、俺のカノジョにはこういうことをされたとか、こういうセックスを俺たちはしているとか、とにかく男の側は勝手に口を滑らせて、ああでもないこうでもないと情報を掻き集めるのだ。それは結局、来たるべき次の性交渉に向けての愚直な情報収集活動として役立っていた。言わばセックスに対しては、包括的な取り組みによって猛烈なエネルギーを費やしてきたわけである。何度も言うが、その賛否はともかく、若者の性とセックスとの関係性は、思春期を過ぎたあたりで盛んな濃密状態となり、男女とも肉食化していたのが当たり前だったのだ。
若者にとってセックスとは、童貞コンプレックスを打破する目的と、新しい快楽のめざめとが同時に解決する手段であった。今となっては、その若者達の当たり前の姿は、大きく様変わりしてしまったと言わざるを得ない。
自身の性欲願望(恋人が欲しいという欲求も含めて)とセックスとが、ほとんど結び付かなくなってしまっている傾向にあるなかで、新しい時代の“しあわせ”なセックスとは、いったいなんであるか、それを考えなければならない。
セックスに加担できないのなら、人を愛する心には加担できうるのか――。人を愛する心が美化され、その反面、セックスが軽視されている理屈が、よく分からない。あるいは逆に恐れすぎているせいなのか。
セックスという行為が、非日常的すぎる、という観念にとらわれすぎていないだろうか。確かに、不特定多数の人と性的接触をおこなえば、性感染症のリスクが高まる。しかし、私たちが理解したいのは、そうした欲求不満の解消のためのセックスではなく、愛する人と楽しむためのセックス、あるいは子を産むための儀である、純然たる形のことである。
避妊の知識もなく、その対策を怠って性交渉すれば、妊娠するか、あるいは何らかの性感染症にかかる可能性が高くなる。双方が不特定多数の人とセックスを繰り返しているのなら、尚のこと、そのリスクが高まることは自明である。だから、セックスは怖い、危険だ――とする思考は、人を愛する心すらも理解していないことになる。
恋人がいてもセックスをしないという若者が、どれほどの割合でいるのかはさておき、最初から恋人はつくらない、あるいは恋人は欲しいがいっこうに出逢いがなく恋人がいない若者が30代になっても依然として多いことの理由は、よき人との出逢いが向こうからやって来るだろうと信じている大馬鹿者か、来たるべき性的接触への対処法を、何一つ勉強していないゆえに怖いから、のどちらかである。
だが、勉強していないのはお互い様なのであって、何も心配する必要はない。うまくセックスをこなそうなどとは思わないことである。“しあわせ”なセックスとは結局、お互いがドジを踏んでも寛容し合えるような、まさに仏様のような人だわ! と互いが認め合える間柄だと、感づく状態を指す。人を愛する心とは、そういう状態を指すのだ。
セックスについてよく学ぼう
若者は、ランナーだ。遡ってとっくの昔に、スターターピストルは打ち鳴らされていた。にもかかわらず、何故自分はそれに気がつかなかったのだろうか?
言わずもがな、ともかく、走るべきである。どんなにゆっくりでも構わないから。周囲で誰も走っていなくとも、自分はとりあえず走るべきである。他人の行動は、この際関係ない。
尤も、走っていない者に声をかけ、一緒に走ろうと手を差し伸べる者は天使である。どんなにゆっくりでも、道に迷ってもいい。走りさえすればいつかゴールに辿り着く。それに反して、立ち止まったままでは、永久にゴールには辿り着くことができない。これは最も古い古典的な、単純な、人の箴言であり、人の神話である。あるいは万物の原理であり、真理である。
若者の特権とは、積極的な働きかけをした者にだけ与えられるもので、何もしないでは、愛するパートナーが見つかるはずもない。むこうからやってくるチャンスは、確率的にほとんどない。――家でぐうぐう寝ていたら、誰かが玄関を叩く者がいる。玄関を開けると、そこに美しい女性が立っていて、私と結婚してくださいと言う。男は直ちにその女性と結婚し、善き家庭を築いたのだった。そして美しい子にも恵まれたのでした。終わり――。そんな妄想をしてニヤニヤしているようでは、あっという間に年をとって年金生活である。人生は、意外に長いようで短いのだ。
だからまず、若者は、自分をきれいにして磨くことである。そうして来たるべき、本当の“しあわせ”なセックスのためならば、なんの迷いもなく、処女を喪失しよう。童貞を捨てよう。むろん、そういう相手でなければ、いっこうにそれを捨てなくて構わない。
ただし、事前に、セックスについてはよく勉強しておこう。無知で路上を運転することほど恐ろしいものはない。それから逆に、セックスレスについても考えてみよう。愛する人の身体の温かさや優しさが、“しあわせ”の問題と直結しなくなってしまうのは、人間本来の姿として、淋しい方向に行っていないかどうか、もう一度考えてみるべきである。あるいは試してみるべきである。あなたは、いちばん若いランナーなのだから。
国家の社会構造そのものが、人々の“しあわせ”を壊している。そういう面は少なからずあるだろう。だからといって、人肌恋しい自分達の“しあわせ”を壊す社会に、ただ背を向けて生きているだけでは、たった一つの人肌恋しい“しあわせ”を勝ち取ることは到底できない。
愛する者同士が互いに望むセックスとは、いったいどういった形なのだろうか、ということを、各々が考えてみる必要がある。何故なら、セックスをしてみたことがない仲の、本当の“しあわせ”など、決してあり得ないからだ。
いずれそれは、別の理屈に傾くだろう。つまり、他の人とセックスをした経験を持つことによって、その人への方に、愛が向く。これは人間社会の、自然的な条理であり、昔の人はこれを情念と言っただろう。であるならば、セックスの交渉のない相互関係は、まことに残念なことではあるけれども、いずれ朽ち果てるに違いない。人同士の愛とは、肉体のぬくもりを感じることのできる距離によってしか、つながることができない。これもまた、自然的な条理である。
だからこそ若者は、セックスをよく知ろう――ということなのだ。セックスという性交渉について真剣に学び、正しくそれを理解すること。そしてあらゆるリスクを用意周到に回避(防備)しながら、実践すること。パートナー同士がそういう立場で謙虚にセックスをとらえられなければ、人生の本当の“しあわせ”など、理解できるはずもない。それが、これからの時代のセックス観であると私は思っている。
最後に、出産時の幸福感について想像してみよう。まさにそれは、愛する人との交わり(結合)の残滓から来るものだ。交わり(結合)とは、けがれの危険を伴うものである。しかし、愛する者どうしであれば、そのリスクを踏み越え、その生殖の儀を通過したという情念と情愛に満たされ、家族は「真の家族」となりうる。それらは太い絆で結ばれるのだ。
これはとても大事な「新しい家族の認知論」である。セックスは人の愛を育み、人を産む。けがれという危険な行為のその先に、本当の“しあわせ”がある。ランナーよ。愛がなければ、人は人でなくなり、生きてはいけないぜ、と私は問いかけたい。