の話。
寝た子を起こせ。これは一生に関わる大事なことなんだから。

ロールプレイングで性教育を

2020年7月20日

 
 包括的なセクシュアリティ教育を高めるのに「演劇」が有効な手段であるという話。日本の性教育の先駆者の一人である北沢杏子さんの著書によると、教室でロールプレイング(役割演技)をすることで、自分の身に起こりうることを疑似体験し、それぞれの立場の人の意思や行動とどう関係されるかが浮き彫りとなり、セクシュアリティに関する諸々の問題提起に役立つという。※ここで記している演劇や寸劇、ロールプレイングをコロナ時代(COVID-19のパンデミック)において実践する場合においては、3密や濃厚接触を防ぐ感染予防対策がじゅうぶんに必要であることを留意しておかなければならない。

ロールプレイングとは何?

 「演劇」という人間表現の形態が学校などの現場で性教育の効果を上げる――。北沢杏子さんの名著『ひらかれた性教育3』(アーニ出版)を読んで、私がそのことを知ったのは、今年の初めである。逆の言い方をすると、保健の教科書を見、先生が黒板やホワイトボードに文字を書き込んで、例えば月経射精妊娠避妊性感染症などの説明を通り一遍にするだけでは、包括的なセクシュアリティ教育の本質として充分とは言い切れず、あまり実にはならないだろう。何故なら、それだけでは人間形成人格形成の成熟に伴う、人との関わり合いの大切さが抜け落ちてしまうからである。
 ではいったい、何を教えなければならないか――。むしろ、知識として教える部分だけではなく、自分で気づく気づかせる部分にこそ刮目してみる必要がある。
 
 成長期の自分の身に起こること・起こりうることの実感を、もう少し生々しく体験し共有することが不可欠となる。例えば、実際に産婦人科の医師や看護師さんを呼んで講義をおこなえば、出産のことや赤ちゃんのことを具体的に話してもらうことができ、相互に意見を交わしながら、普段の授業だけでは得られない体験ができるだろう。普段の授業であっても、単に黒板やホワイトボードに文字を書き込んで子ども達に伝える方法だけでは、あまりにインプット(感受性)の要素が乏しくなるので、イラストや写真、ビデオなどを用いて、その都度視覚にうったえたり、現物を手に取って感覚的に伝えた方がはるかに効果が上がるだろう。そうしてそれらとはまた別個の体験方法として、「演劇」がある。
 
 ここでいう「演劇」とは、主に寸劇のたぐいを指し、学校の教室で簡単におこなうことができる短い小さな劇のことである。その最も初歩的なものが、「役割演技」すなわちロールプレイング(roleplaying)だ。北沢さんの著書の中では、“ロールプレイ”と略して呼んでおり、《心理劇のもっとも単純な形で、教育・産業界・研修会などでおおく用いられている》と記してある。ちなみに演劇活動におけるワークショップ(workshop)というのは、声や身体の反復訓練をしたり、寸劇のようなことをおこなったりするのだが、あれは劇を作るための研究目的、あるいは演技をより高めるための技術訓練のための手段であって、ここでいうロールプレイングとはまったく別物である。ただし、基礎的なワークショップでロールプレイングを取り入れる、ということはしばしある。
 北沢さんが実際に教室で、学生達にどんなロールプレイングを実践したかについては後に回すとして、もう少しロールプレイングについて掘り下げていきたい。著書の中では、心理劇(psychodrama)の創始者ヤコブ・レヴィ・モレノ(Jacob Levy Moreno)氏について詳しく述べられていた。

ヤコブ・レヴィ・モレノの心理療法

 ヤコブ・レヴィ・モレノは、ブカレスト出身でウィーンで育ち、医学校を出てソシオメトリー(sociometry)などの心理療法を研究した精神科医である。実験的な試みとして、ある若い清純派の女優に、ヒステリックな売春婦の役を与えてみた。本人はあまり乗り気ではなく消極的であったが、真に迫る演技がうけて、観客の喝采を浴びた。彼女は実際のところ、家庭では、清純とは真逆の、凶暴性のあるヒステリックな女性だったという。清純派の女優というレッテルをいったん捨て、彼女が実像に近い役を演じるようになってからは、家庭での凶暴性は不思議なことになりをひそめた。つまり彼女は、実像に近い演技を通じて自己表現することにより、ヒステリックな部分での心理的な治療効果を上げたのである。
 モレノ氏はアメリカに移住後、様々な分野の専門家と親しくなって、精神医学のクリニックを開業した。そうした中、刑務所の矯正教育にも従事し、「心理劇による治療演劇劇場」の構想を実現。三段の段差のある、いわゆる馬蹄形の舞台(円形舞台)を構築し、その3つの段差を劇の中で有効に用い、心理的かつ社会的階級に見立てて、受刑者が演じる演者と演者の心理的な表現(体験)を可能としたのだった。具体的に言うと、高い段からは相手を見下す威圧的な表現に、低い位置からは相手を見上げるといった抑圧的な表現となり、心理的な影響が相互の内面にもたらされることを、舞台上から分かりやすく対象化できるのである。
 本の中ではさらに、モレノ氏の「心理劇に不可欠な5つの要素」を挙げていて、とても興味深い。以下に引用する。

ヤコブ・レヴィ・モレノの「心理劇に不可欠な5つの要素」
舞台…設備がないときは、椅子や机を並べるだけでよい。
患者…劇の主演者。
監督セラピスト…劇の監督であると同時にセラピストでもある。
心理劇チーム…演技者と対話をし、必要や役割りを受けもつ。
見物人…見物人は、演技者の行動や反応から感じとった感情を表現することで、演技者に、「自分と同じ感情を他人が分け持ってくれた」ことを気づかせる。

北沢さんがおこなった性教育のロールプレイング

 北沢さんはこの「心理劇に不可欠な5つの要素」を、自身のおこなう性教育のロールプレイングの、不可欠な5つの要素に見事に当てはめてみせた。以下に引用する。

北沢さんの性教育ロールプレイングにおける「不可欠な5つの要素」
舞台…教室。イスや机を用いる。
演技者…生徒の中から希望者に挙手させて主役、準主役をきめる。
監督セラピスト…講師である私自身、または専門家をあてる。
心理劇チーム…学級全員の中から、主役の両親、担任、生徒指導の教諭、養護教諭、警官、PTA、婦人科医など劇のシチュエーションにあわせた役を割りふる。
見物人…役のつかなかった生徒は全員を級友とし、演技者および心理劇チームの言動や反応から感じとった感情を表現し、意見を述べる。

 役が決まった人の胸には、“母親”とか“警官”とか“婦人科医”などと記したネームプレートをぶらさげ、劇の進行上、誰がどんな役なのか認識し易くしておく。ロールプレイングをスムーズに進めるためには、そのシチュエーションが生徒たちの身近な問題となるように促さなければならないという。
 
 例えば、北沢さんがおこなった中学校の学年別を例に挙げると、1年生では、
《A子とB男が日曜日に映画を観にいった。映画は六時には終わったのだが、そのあと、二人で公園をぶらついたりして、気がついたときは九時半を過ぎていた。A子の家の門限は七時。さあ、二人はどうするだろう?》
 2年生では、
《修学旅行の旅館―消燈の時間近く、B男はA子の部屋に遊びに行っていた。しゃべっていると、見回りの先生の足音がしたので、あわてて電気を消し、A子のふとんの中にかくれるが、発覚。あらぬ疑いをかけられてしまう…さあ、二人は?》
 というようなシチュエーションで演じられたが、3年生ではもう少し、現実的かつ深刻なものとなり、
《A子が妊娠、ひとりで思い悩んでいるうちに、法的に中絶が禁止されている二十四週を過ぎてしまった。A子は親友に打ちあけ、一緒に婦人科医の検診を受けるが…》
 といった具合に、中学生であれば中学生の精神的かつ身体的発達段階に応じたシチュエーションロールプレイングをおこなうと進行しやすいという。最後の3年生のシチュエーションでは、A子とB男のそれぞれの親友が登場したり、それぞれの保護者、また校長先生といった学校関係者や病院の先生などが劇に登場して、アドリブでセリフを言い、立場の違いから事態がいろいろな方向に発展していくわけで、劇はそれを客観的に浮き彫りにしていくから見応えがあるのだ。
 
 ただ、私が思うに、たとえ中学3年生であっても、精神的かつ身体的発達は個人差が大きいので、中学生の関心度が高い妊娠中絶をテーマにしたシチュエーションであっても、役の割り振り方次第によっては、必ずしも劇が実録的な様相になるかどうかは、やってみなければ分からない。そうした場合には、同じシチュエーションで何度か役を変えてやってみるといいだろう。 

北沢杏子著『ひらかれた性教育3』(アーニ出版)

中学生の生徒がロールプレイングを実践している風景

ロールプレイングをする生徒と指導する北沢杏子さん

精神科医ヤコブ・モレノが考案した馬蹄形舞台(円形舞台)

祭礼時に多くの民衆を惹きつけたペルガモンの野外劇場

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 演劇の本質であるカタルシスと性教育への影響

 北沢さんの著書では、《私はもともと劇作家でもある》と踏まえた上で、「モレノの心理劇とギリシャ悲劇」という項目もあってたいへん心強い。ここでは古代ギリシャの劇の効果であるカタルシス(catharsis)=悲しい劇を観ることで観客が鬱積している感情を放出させ浄化させること――について述べられ、さらにはペルガモン(Pergamon)の野外劇場についても触れられていた。
 
 ところで私自身、学生の頃、ヘレニズム文化といったギリシャ文化東方の文化との融合などについて学んだ記憶がうっすらとあるが、ペルガモンはトルコ西部の古代都市で、現在の都市ベルガマ(Bergama)のあたりである。そこには丘の斜面に高さ53メートルの扇形の野外劇場が遺っており、1万5千人ほどの観衆を集めることができたらしい。ディオニュソス(Dionysus)の祭礼(バッカスの神を祝う作物豊饒の儀礼的祭事)の日に、いわゆるギリシャ悲劇なる劇を催し、観衆がカタルシスに浸ったといわれている。 
 おそらくは、さらに遠い昔の過日、まさにロールプレイング=役割演技といった初歩的な形式で小規模の村人が集まって自由に寸劇をおこなったところから始まり、やがてペルガモンのような大掛かりな祭事の、言わば公的行事のようなものに発展していったのが演劇の古い歴史であり、その意味と効果の本質は、まったく今と変わらない。特に民衆の関心が及んだのは、悲喜劇のうちの悲劇の方であったことは言うまでもない。
 
 北沢さんが実践した性教育のロールプレイングは、(悲喜劇云々は別にして)人々や社会の関係性における事柄の問題点をあらわにさせ、演じる側にも観る側にも心理的効果を上げる強みがあり、包括的なセクシュアリティ教育をおこなう際には重要な役目を果たすと思われ、学校の場で大いに活用すべきだと思われる。ある種、日本の教育現場でおろそかにされがちなのは、こうした根の張った重層的な取り組みであるのかも知れない。黒板の文字情報、視覚にうったえるイラストや写真、専門家の講義、ネットの動画、そしてもう一つ忘れてはならないのが、実は演劇という形態と文化なのであった。

〈了〉