ベッド・サイドの名文句?
昭和44年初版の『なんの本だろう―guess what?―』(KKベストセラーズ)もまた、医学博士奈良林祥氏が執筆した、性とセックスについての解説本である。KKベストセラーズの中でも、当時たいへん人気を博した本だ。“なんの本だろう”とタイトルが謎めいていて興味が惹かれるが、あの有名な奈良林氏の本――ということであれば、その内容は自ずと分かる。ブックカバーの後ろに、著者自らがこの本について述べた文章が掲載されていて、実に明解だ。
《ある人にいわせると「革命の書」だといい、ある人は「ウシシの本」だといい、またある人は「ためになる本」であるともいうが、要するに、それ等のすべてを包括し、あなたの夜と昼を華麗かつダイナミックなものに塗り変え、あなたを心の底から蘇らせる本、とでもいったらいいであろうか》
奈良林氏は、諸々の著書で肝心なことを繰り返し述べている。それはつまり、性とセックスというのは、人間が本能の導きによって、例えば成長期(性徴期)を過ぎたら急に芽生えて、何も考えなくても自然とその方面が豊かに快活になる――というものでは、決してないということだ。子どもの成長期(性徴期)に合わせて正しい性の知識を学ばなければ、誤った認識のまま生理をやり過ごしてしまうし、もしかすると将来、誤ったセックスを繰り返すことになる可能性がある。とくに女性の月経や、男女それぞれが駆使する避妊法がそれである。
人間というのは、本能に身を任せていれば、じゅうぶんに性の、つまり生理と生殖の機能を果たし、男女の性生活はうまくいくだろう、という考え方は、自然そのものに対する大きな勘違いである。性とセックスは、本能に身を任せて無頓着でいていいものではなく、積極的になって学ぶべき分野であり、あるいは経験であり、それが個人の幸福につながる。我々は幸福を求める権利がある。奈良林氏の性とセックスに関する本は、そうした自他を省みる性の「養生訓」という側面もあるのだ。
ただし、『なんの本だろう―guess what?―』は、そんな堅苦しい本ではない。奈良林氏が述べているように、この本はまさに、「あなたの性生活をダイナミックに塗り替え、あなた自身を心の底から蘇らせる」本である。したがって今後、この本の面白い内容を随時紹介できれば――と思っている。
さて、性とセックスに関する「祥語録」という章についてである。
副題で「ベッド・サイドの名文句」と題され、《あなた物知り顔ですましているけど、ホントの現代人なら、理論と実技が一致しなくては。子曰く「朝ニ道ヲ聞カバ夕ニ死ストモ可ナリ」》とも付されている。ここで紹介する語録が、奈良林氏オリジナルなのかどうかはさておき、まさにそれらが理論と実技の一致による、実践的な性とセックスの含蓄のある言葉であることに気づくだろう。
ちなみに、こういう「ベッド・サイドの名文句」のような語録を扱った性教育を、例えば、高校の授業の中で組み入れることができたとするならば――まあ無理なのは承知の上だけれど――学生達は、性とセックスに関するあらゆる先入観や偏見を取っ払い、真摯な態度で自分自身の心と体に向き合えるに違いない。はっきり言って、ベタな性教育の授業よりも、はるかに率直で分かりやすく、男と女の関係性がよく理解できるのだ。
ともあれ、今これを読んでいる学生さんは、将来の交際のために、ぜひこのあとに触れる「祥語録」いや「ベッド・サイドの名文句」をじっくりと読んでいただきたい。これらがどれほど役立つものか、私はその価値をいまあらためてここに示したいのである。
掲載した画像には、本中の全ての語録を引用し収録した。ただ、余りに多すぎて読みづらい点は、まことに申し訳なくご勘弁願いたい。PDF版もダウンロードできるようにしてあるので、これをプリントアウトし、ゆっくりと恋人同士やご夫婦で眺めて、その含みある言葉を噛みしめてみてはいかがでしょうか。
男女の交際と性エネルギーとは?
語録の中から、いくつかピックアップして解説してみたい。
まず一つめ、《男女とは、まずセックスによって近づけられ、愛情によって離れがたくされ、そして愛によって、ほんとうに結ばれてゆくものである》という文句。
これはもう名文句であり、大人の男女の恋愛関係の、言わば基本原理であろう――と私は思う。もし、この中身を否定しさまたげる者は、全て偽りであり、恋愛ではなく、愛情でもないのだ、ということを、端的に述べている。
相手を心底好きになれば、その人とセックスがしたいと願望を抱くのは当然だろう。そうでなければ、それは本当に好きな相手ではないという単純なことである。結婚してもセックスを拒む男女が、この世に少なからず存在するが、偽りの恋愛の成れの果て――と断じて構わないと思う。大人の男女であれば、「セックスはしたくないが、相手にとても恋心を抱いている」という気持ちは、あり得ない。
いやいや、私の場合はそうなのです――という人がもしいれば、その人は全く正直ではなく、嘘つき人間であろう。奈良林氏曰く、《女性の体が欲しいという望みなしに、男が女性と交際しようなどと思うことは、太陽が西から上ることがないと同じくらいに、あり得ないことなのである》。男の性はそういうものであり、それが基本原理である。むしろ問題は、正直であるか否か、ということなのだ。
《性とは、下半身の局所にぶらさがっている、なにやらうすぎたない附属物なのではなく、人間が生きている中心で、生まれてから死ぬまで燃え続けるエネルギーに他ならない》。何もこれは、文学的表現のたぐいでもなんでもなく、科学的に性エネルギーの本質を端的に述べている文句。
もともと性エネルギーは、人が生きようとする根本のエネルギーなのであって、“エッチな気持ちになるエネルギー”という意味だけでは断じてないのだ(本サイト「性へのめざめ」参照)。よくいう精力増進というと、何も性欲を掻き立てるエネルギー源だとか、食べると下半身がムラムラとしてくる食品だとかに思われがちだが、精力とはそもそも、心身を活動させる力、物事を成し遂げていく活力のことを指す(『明鏡国語辞典』第二版より)。つまり、体全体を元気にする力という意味なのであり、性欲だけに限ったものではない。ちなみに、性欲をうながしているのは、男性ホルモンであるが、性エネルギーの活力における性欲とは、そのうちの一方面にすぎないのだ。
結婚とセックス
《性交とは、これ以上ない、二人の許し合いの姿であり、これ以上かくすことのできないさらけ合いの姿である》。
お互いに性器を剥き出しにし、交接して快楽にひたるのだから、同意のもとの性交は、まさに「かくすことのできないさらけ合いの姿」である。またもう一つ、《夫婦の間では、どんなに大胆なエロチシズムの行使も、決して不道徳とはいわれないものだ》というのも同じ意味で、お互いが許し合っているからこそ、いかなる快楽のかたちも、社会道徳とは区別されるべきものであることを述べている。したがって、「他人のセックスを根掘り葉掘り訊くものではない」というのも、快楽性の本質が、社会的な法規から隔絶されたところに位置するからなのだ。
さらに、《結婚とはエロチシズムの、実用化と、高度化の場である》ということも加えると、人間の動物的な本性がおのずと見えてくる。人間は哺乳類の脊椎動物であること以外何ものでもない、という当たり前のことを忘却した人間社会(=超人間主義的国家)があるとすれば、その社会はもろくも秩序を失い、社会基盤は破綻するだろう。
よく未婚の者を半人前という言い方で揶揄することがあるが、一個人が夫婦となって家庭を築いた時、初めて人間らしい(あるいは動物的な)営みが始まるのだという意味において、本来的に一人前というのは、夫婦になった者どうしのワンペアを指す言葉――なのかも知れない。
つまり、結婚生活とエロティシズムとを切り離した夫婦規範というのは、実際上あり得ないのであって、そういう超人間主義的思考は、全く動物的ではないという点で、うまくいくわけがないのである。
《生の充実なしに、性の充実はないし、性の充実なしに、生の充実はない》という文句は、とくに中高年の夫婦に陥りがちな怠惰、すなわち夫婦間の快楽性の放棄からくる「人生の失速」を示唆したものと、私は受け止める。
妻への悪口を言う前に、夫として、まず自分の身なりや生活態度をあらためよ。旦那への悪口を言う前に、妻として、まず自分の身なりや生活態度をあらためよ――ということはとても大事なことだ。まず自らが清潔で身心が美しくなければ、セックスの対象として好まれるわけがないということを、若い頃にじゅうじゅう経験則として習得していたはずが、夫婦生活の惰性からくる堕落(生活クオリティの低下)が、セックスという快楽(セックスしたいと思う気持ち)を喪失してしまうのだ。
夫も妻も、もっともっとおしゃれをすべきであり、着飾る美に対して貪欲になるべきである。そのためには、まず心を洗わなければならない。
「洗って整う」ということ。全ての責任を妻に押しつける態度をあらため、そしてまた、自分が怠惰になった原因を旦那のせいにするのをあらためる必要がある。貧しき心を洗い落とし、若い頃の恋だの愛だのは無くとも、まず自分の身心を美しく保ち、時に着飾り、そして夜の快楽に励むべきである。そうして忘れかけていたお互いの愛情というのは、そのあとにやってくるものなのだ。