奈良林祥の童貞学入門

2021年9月7日

 
 当サイトにおけるセックスに関するトピックで、ほとんど網羅的に参考にさせていただいているのが、ベストセラー本『HOW TO SEX 性についての方法』(KKベストセラーズ)などの著者である奈良林祥氏の数多いセクソロジー本だ(「奈良林祥先生のセックス講義」参照)。そのうち、これまたベストセラーとなった『20歳前後の本 これだけは知っておこう!』(KKベストセラーズ、昭和43年初版)の中から、興味深いトピックをここでピックアップしておきたい。それは、まさしく20歳前後の若者に教示している、童貞についてと、友情から恋愛に発展していくための「恋のホイール・セオリー」についてである。

童貞には3つの型がある

 奈良林氏の言説に触れる前に踏まえておきたいのは、童貞(どうてい)の定義である。現代においては、童貞とは、「同意のもとによる他者との性的行為の経験のない男性のこと」――という解釈でかまわないのではないかと思われる。
 童貞の定義について論じていくと、さまざまな言述の凡例としては、ここでいう性的行為とは、「射精にいたる性交」それも「腟性交」のみなのか「肛門性交」も含まれるのか、といった相違、またそれ以外の性交すなわち「射精をともなわない」腟内挿入のみの場合や、腟外射精はこれに含まれるのかといったこと、さらには、ペッティングかぎりなく濃密な性的行為をおこなっても、性交をともなわなければその男性はいまだ童貞でありうるのか否か――等々、こういった童貞の定義をめぐる解釈については、意見が分かれるところである。これらのことについては、澁谷知美『日本の童貞』(文藝春秋)が詳しい。
 奈良林氏が『20歳前後の本』の中で童貞をどう認識しているかについては、その時代(昭和40年代)のごくごく常識的な解釈にとどまっていると考えていい。すなわち、奈良林氏のいう童貞とは、「その男性がまだ異性との(射精をともなう)性交経験がないこと」ということになる。それを踏まえた上で、同書の「童貞学入門」の稿では、童貞の男性には以下のような3つのタイプ(指向)があることを述べている。
 
①自然発生的童貞
 これを奈良林氏は、“生まれっぱなしの童貞”とも言っている。小さい時から真面目で行儀よく育てられすぎた結果として、性に目覚めるようになっても、性欲なんていうものはきたならしいものだから、禁欲することが正しいのだと思い込んでいる男性。この強度の場合は、仮に結婚しても「射精ができない」「インポになる」といった性的不能を示す症状になる可能性がある。
②偶発的童貞
 機会があれば童貞を捨てていたかも知れないタイプ。チャンスがないまま、ずるずると結婚まで童貞であったという人。したがって、結婚早々にセックスをスマートにこなすことは、いささか経験不足で無理な話だが、時間と経験を積むことで、比較的短時間に男としてのサマはつく。
③主体的童貞
 童貞を捨てようと思えばいつでも捨てられるが、意地あるいは自身の童貞観にもとづいて、結婚までは守ろうと、苦しみ悩みながら主体的に童貞である男。
 
 10代の若者、とかく思春期の頃の男子は、セックスに憧れ、「早く童貞を捨てたい」という観念に駆られやすい傾向がある。そういう競争意識的な観念を、この時期の男子なら誰しも頭に思い描くことがある。男性の性の生理的な欲求=性欲の高まりが、そうした意識を誘発させるのかも知れない。
 一方で、童貞を捨てれば男になれるという思い込みがあるのも、こうした競争意識的な観念を強く抱く要因ともなる。かつて日本では、農村における生産者(主に男性)を体系的に支えるための習俗として、村の働き手となる男の子をたくさん産むことが望まれた時代があった。そうした時代では、現代のような男女の快楽のためのセックス観は乏しく、あくまで子を産むための生産的性交であるから、若い男衆は村のしきたりに則してそれを競い、信奉したのである。地方の村々の風習が残る昭和40年代においては、こうしたやみくもに童貞喪失を競いたがる男子が圧倒的に多かったのではないか。
 
 ところで奈良林氏が定義した、①の自然発生的童貞というのは、戦後の都市型の生活環境の中で生じてきた、新たな性観念による偏見の産物とも読み取れる。
 戦後の一部のフェミニズムの類型には、男性の女性支配欲的な観念をまっこうから否定、それもかなり極端に否定する考え方があった。そうした態度の女性が、とくに男性の性を汚らわしいものとし、かりに家庭内で子どもをしつけたりすると、やがて思春期を迎えた男の子は、自分の性を肯定することができず、芽生えた性欲に対して禁欲にはしり、徐々に不感となり、恋愛に対してもきわめて消極的になる傾向がある。このため、成人を過ぎて結婚したとしても、男性としての性機能はほとんど不能に近い状態となる可能性がある。
 現代においては、小学校でのセクシュアリティ教育によって性の偏見が取り除かれ、自身と共にその生理現象を肯定し、偏った恋愛観やセックス観は生まれにくくなっている。

恋のホイール・セオリー

 童貞を早く捨てたいと思う若者の気持ちを裏返せば、早く恋愛したいという願望がそこにあるからだろう。果たしていずれ、自分は恋人と付き合うことができ、そのうちに結婚できるだろうかと、高校生くらいの男子はとかく不安に駆られがちだ。
 私自身の高校時代を思い出してみると、クラスメイトの中には正直、〈こいつ、ぜったい女性にもてなさそうだな〉と思う男子が少なからずいた。モテるタイプモテないタイプというのはあるのだろうが、主体的に結婚を望まない男性以外は、ごく自然にと言っていいくらいに、後々みな結婚しているし、子どももいる。
 したがって、高校生くらいの男子が不安に思うほど、好きな人とめぐり合うことは難しいことではないし、結婚に心配する必要はないのだ。本当にごく自然に、人と人との出会いはやってくるし、結婚して家庭を築くことは、〈結婚なんて、ぜったいじぶんにはムリだ〉とあきらめて落ち込んでいる高校生が考えるほど、絶望的な人生ではなく、誰しもがそれなりに、人並みの人生を歩めるものであることを、若い人に伝えておきたい。
 奈良林氏の本の中で、若い頃に友人として知り合えた男女が、やがて親しくなって恋愛するにいたる、その心理的プロセスを見事に図形化した画期的な教示があるので、ここで紹介しておこう。それは、「恋のホイール・セオリー」である。
 出会った人と友情に芽生え、やがて恋愛に発展していく段階の人間の心理状態というのは、複数の恋愛経験のある人では自ら似たような順序を踏んでいるというのが、奈良林氏の指摘である。これは、アメリカのアイオワ大の社会学教授アイラ・リース氏の「愛の循環説」(愛のホイール・セオリー)という学説だ。

奈良林祥著『20歳前後の本』

10代の若者で多いのが偶発的童貞

リース教授が提唱する「愛の循環説」を図表化

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 ①会話の成立
 何かがきっかけで、二人のあいだで会話が交わされる。ちなみに文中では、その時代の流行があらわれていて、警視庁機動隊とにらみ合って坐り込んでいる時でも、とか、ゴーゴーを踊っている時でも、となかなか面白い。ともかく、二人のあいだで偶然会話が交わされたとする段階。
②相互理解の誕生
 その時、なにか、通じ合うものを感じるということがある。心理学の用語で、ラポールというらしい。心のつながりが生じる瞬間のこと。なにかこの人と話しててピンときた、という言い方の方が分かりやすいか。
③自分の個人的秘密や希望や問題を打ち明けたいという気持ちが生じる
 これを心理学の用語で、レブレーションという。なにかピンときた人とのあいだでは、会話の回数だとか言葉の多さはほとんど関係なく、たったわずかな時間にもかかわらず、自分の心の秘密や個人的なことを話してみたくなるという。この感覚に到達できた場合は、友人という領域から一歩前に出られる可能性がある。
④そこまで心をさらけ出し合えたことが相互依存の気持ちを生む
 お互いの持っている心配事や悩み事、夢や希望を共に語り合い分かち合う時、心の中にこそばゆい幸福感が忍び込んでくるのを感じたら、二人はミューチュアル・ディペンデンシー(信頼で結ばれた間柄)の時期に到達していることになる。すなわち二人は既に、恋を意識しているはずだ。

若者は自分の心細さと向き合おう

 奈良林氏はこうも述べている。思春期から青年期にかけて、人はやたらと、束縛から脱して自由になりたがる。そうして、自由になろうとしては不安に襲われる。その不安な時に、独りでいるよりも二人の方が、耐えやすいと思うのが人情。恋愛の芽というものは、そういうところから芽生えるものだと。
 つまり、若者が「恋をしたい」と思う気持ちの裏には、自分自身に心細さがあるということなのだろう。何かがきっかけで異性と知り合えた時、友達という関係から発展いくのは当然だが、自分自身の心細さを包み隠すことなく共に理解し合える人、分かち合える人こそが、真の恋人となり得るのではないだろうか。
 
 童貞を捨てるといったようなセックスのことばかり考えている学生、童貞喪失を競いたがる若者は、まずその性欲のエネルギーをいったん咀嚼し、純粋な恋愛へのエネルギーへと転化してみよう。
 恋愛へのエネルギーへと転化する、あるいは恋愛についての観念を深めるとは、いったいどういうことか。それすなわち、己の心を知るということ。特に独りではいられない不安な心細さの在処を考えてみること。それを異性とのあいだで共有し合えた時、友情から恋愛へと発展していく。童貞を捨てる云々がいかに馬鹿馬鹿しいことであるか、もうおわかりだろう。

〈了〉