オルガスムを学ぶということ
私が「オーガズム」という言葉を初めて知った本
昔、私は医学博士・奈良林祥(ならばやしやすし)氏の『HOW TO SEX 性についての方法』(KKベストセラーズ出版“ワニの本”1971年初版)の改訂版である『新HOW TO SEX 性についての方法』(1974年初版)という本を読み耽った時期があった。それは、私が高校を卒業した後の、90年代初めの頃のことなのだが、この話については、「奈良林祥の『性についての方法』―包茎と自慰の話」で詳しく書いている。
ここでも少々、その『新HOW TO SEX 性についての方法』の本について触れておくと、当時は若気の至りで、私はこういった本をあくまで“エロ本”として読み耽っていたに過ぎなかったのだ。ところが今、あらためて読み返してみると、男女の性についてはもちろんのこと、この本の主題である「セックス」における方法と諸々の対策についてが、実に冷静なる性科学的な視点で解説されているのに驚く。奈良林氏の文章もたいへん丁寧で、ある種の慎重さと明晰な図解などによって充分に補完され、一言で言えば“名著”であった。決して低俗なポルノ本ではない。あえて戯言だということを承知で断言すれば、この奈良林祥著『新HOW TO SEX 性についての方法』は、ぜひとも岩波書店から再版復刻していただきたいくらいの、後世に残すべきセクソロジー及び文化的価値の高い本だと私は思っている。
さて、本題――。奈良林氏の『新HOW TO SEX 性についての方法』をそういう年頃に読んで、頭に強くインプットされた言葉があった。そのうちの一つが、「オーガズム」(orgasm)である。言葉の響きからして、とても謎めいているようでもあり、何か性的にも感じられ、まだ10代であった私は、この「オーガズム」という響きを忘却することができなかったのは確かである。
「オーガズム」とは、性行為時の絶頂感のことだ。当時の私は、この言葉の意味が、いまいちよく分かっていなかった。「オーガズム」はオルガスムスとも言い、オルガスムとも言う。これは何しろ、ドイツ語なのである。『新HOW TO SEX 性についての方法』で私は、性的刺激の強い(男女の絡み合った)ヌード・フォトグラフにばかり夢中になっていたので、ろくにその言葉の本意を汲み取ろうとはせず、漠然とした「セックス」論とその淫猥な絵巻の白昼夢に酔いしれていただけなのであった。
スウェーデンでは学校で「オルガスム」を教える
ところが海外では、この「オーガズム」について、真面目に子どもたちが議論しているのである。1980年代のスウェーデンの、とある公立高校の教室にて、その生徒たちが真面目に「オーガズム」について学んだ――。そのことを私は、別の本で最近になって知ったのだった。
私にとってこれは驚くべきエピソードであった。何故なら、日本の公教育の現場において、「セックス」(性交)を教えることは原則としてタブーなのだから(当サイト「子どもたちに正しい性の知識を」参照)。そうした日本の“不備のある”性教育の危うい状況と比較して、遥か30年以上も昔のスウェーデンの公立高校では、学校の教室という現場で、真面目に「オーガズム」について教え、生徒たちにディスカッションさせている。このあまりの違いに、私は言葉を失ったのだ。
そうしたことを教えてくれた本が、アーニ出版の北沢杏子著『実践レポート ひらかれた性教育4』(1988年刊)であった。この本の第2章「ヨーロッパの性教育授業参観」の中の「初体験についてどう教えるか(スウェーデン)」にその授業の内容が記されていた。まさにその内容は、「オーガズム」についての授業だ。ちなみにこの本ではそれを「オルガスム」と称しているので、以後、「オーガズム」を「オルガスム」と言い換えることにする。先生と生徒たちのやりとりはたいへん活発なものとなっているが、そのうちの一文(先生が発した言葉)だけ引用しておこう。
《よし、テキストに話を戻そう。グラフにもあるように、女性のばあい、オルガスムの波はとても複雑だ。黒い線が男、緑の線が女だが、小さいオルガスムの波がずっと続いているだろう。実験の結果、男性のオルガスムは一回だけだが、女性は数回のオルガスムを得ることも可能であることが実証された》
“初体験”を教える劇団ローテ・グルッツェの学校巡回劇
最も私が感心したのは、旧西ドイツ(ソ連崩壊前の旧ドイツ連邦共和国)西ベルリンの劇団ローテ・グルッツェによる“学校巡回劇”のことである。まず、この劇団の自己PRの文章がユニークなので、その部分を引用させていただく。
《私たちは上演を体育館、青少年センター、幼稚園、多目的空間、サーカスのテント、レストラン、集会場、ロビー、図書館のどこでも、もちろん劇場でも行います。でも、舞台の上では演じません。私たちが演ずるのは一枚の幕の前にあるじゅうたんの上です。観客はじゅうたんの周囲に座ぶとんを置いて座ります。私たちはその後に、椅子や机やベンチ、台などで一段高い観客席を作ります。小さい人たちは前に、大きい人たちは後ろに座ることになります。全員がよく聞こえ、見えなくてはいけません。観客は私たちを、私たちは観客を。こうして芝居が始まります》
この西ベルリンの劇団ローテ・グルッツェが、『愛って、どういう意味?』という劇を、“学校巡回劇”として公演していたようである。劇の中身では、“初体験”の男女における「オルガスム」について繰り広げられた部分がある。この内容がたいへんユニークで、また熟読玩味すべきものであると思われるので、少し長めになるが、以下、転載させていただく。
ドラマの主人公は、パウラ(少女)とパウル(少年)。ドラマの前半で、二人の恋をさまたげる事件がいろいろあって、二人はやっと結ばれ、カーテンの向こうに消える。
■第一場――初体験はうまくいかない。パウルの性器が突然萎縮してしまったのだ。しょんぼりするパウルに、パウラが優しくいう。「初めはちょっとこわかったけど、小さくなってしまったときは、むしろかわいいと思ったわ」。二人はにっこりして、もう一度、試してみようとカーテンの向こうに消える。
■第二場――浮かぬ顔でパウラが現れる。「ひとからきいていたほどよくはなかったし、失神もしなかったわ」。パウルが登場。早く終わってしまったことを気にしている。狂言廻しが出てきて、「二人はお互いに、どうして欲しいのか、なにが不安なのかを知り合おうと始めたばかり……初体験ですべてがわかるわけじゃないよ」という。二人は納得してさらに知り合うべく、カーテンの向こうに消える。
■第三場――たくさんの色とりどりのポケットのついたガウンを着たオルギ(オルガスム)が登場。カーテンの後ろの二人のところへ行きかける。狂言廻しが出てきてオルギを呼びとめ質問する。
Q ちょっと待って、オルギさん。どうやって、オルガスムに達したらいいんですか?
A そうだね。いちばんいいのは……オルガスムの方から来させることだろうね。
Q オルガスムって、どういうものなの?
A (肩をすくめて)わたしは、優しくて荒々しく、あたたかくて冷たく、さわがしくて静かで、ふざけてて真面目で、恥ずかしがりやで図々しく……要するに、ちょっとやそっとじゃあ、表現できないものなんだ。
Q それで、オルギさん。オルガスムがくるようにするには、どうしたらいいんですか?
A まず、お互いがお互いを……言葉や愛撫やキスで発見するべきだろうね。からだ全体、上から下まで触れあって、どこにどうすれば快感があるかみつけなさい。どんな方法だっていい、お互いに気にいった方法でみつけるんだ……みつけるんだ……みつけるんだ……それが肝心だよ。
Q 二人がいつもそうだと、オルガスムもいつもくるものなの?
A いや……断っておくが、わたしはいつもくることを期待されるのは好きじゃないんだよ。むしろ、わたしがくることなんぞ考えずにいる方がいい。それは、わたしなしでもステキなものなんだからね。だが、つつましさや恐れや無知から、わたしをあきらめるひとがいるのは残念だ。
Q あのう、オルガスムって学ぶものなんですか?
A 誰だって、生まれたばかりのときには自転車に乗れないじゃないか。転んだり、走ったり、また試したりしながら自転車に乗れるようになっていくように、わたしも学ぶものなのさ。だが、わたしがきたことがわかっても気にとめないでいるのがいちばん。恋する二人の心臓の高鳴りの中に、初めて抱き合った興奮の中に、がくがく震えるひざや鳥肌立った腕、もえ上がるような感覚の中に、わたしはすでに来ているんだからね。
Q そして……?
A そして、さらに二人が近づきあい、求めあえば……(ポケットから羽毛をとり出して撒きちらしながら)わたしはやってくるんだ……やってくるんだ……やってくるんだよ……。
オルギは羽毛を撒きちらしステップしながらカーテンの後ろに消え、テーマ音楽は一段と高くなる。やがて、パウラとパウルは手をつないで出てくる。オルギは二人にキスをして、すばやく退場。パウラとパウルは、しっかりと抱きあう。開幕のときと同じポーズで……。
私たちは「オルガスム」について学ぶ必要がある
北沢氏は、このシナリオ抄録の後の文章で、こう感想を述べている。《オルギが語るオルガスムの説明は、ユーモラスな中に哲学的でさえある。私たちは誰だって、こんなふうに教えられたことはなかった》――。
私もこのシナリオを読んで、まったく同じことを思ったのだ。愛し合う二人による「初めてのセックスの体験」というのは、確かにお互いがどぎまぎとした、雑然と茫然と性急なものであるかも知れないが、こんなに素晴らしいものであるかということを、この劇の「オルガスム」の場面で示しているではないか。そして劇の中では、愛する二人にとって必要なのは、避妊について考えること、盲目的に愛さないように、と巧みな表現を用いて示唆している。
それはとても大事なことだと思う。こうした人間愛と人間学が交差したドイツの国柄らしい独特な表現解釈と、日本の性教育の粗末で窮屈なものとの違いに、私はあらためて立ち止まって考え、思わず絶句してしまうのである。
これが当時の性教育の、時代に偏った内容ではないことを、最後に触れておく。例えばドイツの2010年の、13歳から14歳が対象となっている学校の「生物」の教科書では、「セクシュアリティと生殖」という必須領域がある。そこでは二次性徴や生殖器の構造と機能、月経のこと、性感染症や避妊法、妊娠と出産について学ぶほか、「セックス」(性交)についても詳しく示されており、性交の際、女性のクリトリスと男性のペニスが強く刺激され、性的な頂点――「オルガスム」を体験する云々が述べられていたりして、教科書にはっきりと「オルガスム」という言葉が登場する(橋本紀子・池谷壽夫・田代美江子編著『教科書にみる 世界の性教育』かもがわ出版より)。
私たち日本人は、「オルガスム」について何ら学んでいないようである。そうした認識を持ち、あらためて劇団ローテ・グルッツェのような素晴らしい劇を読み解いていくべきではないだろうか。