の話。
寝た子を起こせ。これは一生に関わる大事なことなんだから。

高校野球の丸刈りは伝統?

2022年6月9日

 
 個人の多様な価値観ジェンダーフリーへのアップデート(認識の改善・更新)が叫ばれる現代、日本の高校野球の丸刈り球児の姿が、特異な光景のように映る。なぜ、彼らはこの現代においても丸刈りなのだろうか。そもそも野球は、丸刈りでなければできないスポーツなのか。日本の高校野球の球児たちがほとんど丸刈りであることに、どのような根拠と社会的な意味を掘り起こせばよいのだろうか。
 
 2022年5月17日付朝日新聞朝刊の記事「丸刈りにする? チェンジする?」(記者は佐藤祐生、山口裕起)を読んだ。この記事は、高校野球の監督らが「丸刈り」について意見を述べ、“脱丸刈り派”と、“それでも丸刈り派”に分かれた意見を列挙したものである。朝日新聞側の主観的な見解はなく、賛成でも反対でもない、中立の立場を保っているように感じられた――。
 
 記事の本文を読み解く前に、「丸刈り」問題を整理しておこう。
 「丸刈り」を広辞苑で調べると、《頭髪全体を短く刈り込むこと。また、その髪》とある。丸刈りの髪型それ自体が問題なのではない。民主主義と自由主義を建前とする日本において、大人が子どもに、個人の髪型を統制すべく強要し続けていることに問題があるのだ。もっとも、幼少期の子どもの髪型を、保護者が独断で決めているのは、まだ許容できる。しかし、既に自我が認識できる年齢の中学生や高校生の彼らの髪型を、大人――この場合は保護者ではなく学校側――が、強要しうる権利は、どこにもないはずである。むろん、野球をやるうえで、どうしても丸刈りでなければならない理由(科学的根拠)があれば別だ。さて、その場合においても、果たしてそれは、スポーツとしての競技と言えるだろうか。

丸刈りやめました派

 記事の中の“脱丸刈り派”の意見から見ていこう。
 岩手の花巻東高校の野球部監督・佐々木洋氏は、2018年夏の全国大会を最後に、丸刈りをやめたという。「次の100年」というテーマを掲げ、新しい野球部を目指したのだ。岩手県体育協会の事業の一環でアメリカのロサンゼルスを訪れた時、同性のカップルが普通に手をつないで歩いていた光景に驚いたという。佐々木監督が感じたのは、多様性と時代の変化だった。
《高校野球には良い伝統やしつけなど、残すべきものももちろんある。ただ、そこにあぐらをかいて時代の変化に乗り遅れてはいけないと思います》

(2022年5月17日付朝日新聞朝刊「丸刈りにする? チェンジする?」より引用)

 
 髪型なんて、関係ない――と述べているのは、日大三島永田裕治監督。(子どもたちに)いかに野球を楽しんでもらうか。ときに厳しさは必要。でも、さわやかやったら、ええやんか――。
 原点は、1995年1月の阪神大震災。前任の報徳学園(兵庫)の野球部で、震災から約1ヵ月後に練習を再開した時の、キャッチボールをする選手たちの笑顔が忘れられなかったという。選手たちの側は、“さわやか”の範囲を自分たちで判断し、(とくに髪型のこまかいルールが無くても)規律の乱れにつながることはないという。主将の加藤大登のコメントも掲載されていた。《身だしなみを意識するようになりました。寝癖や帽子の跡は水をつけて直します》

丸刈りやってます派

 しっかりとした理屈で丸刈りをやめた“脱丸刈り派”と比べ、“それでも丸刈り派”の方は、なんとなく揺れ動いている感じがしないでもない。
 東洋大姫路の野球部監督・岡田龍生氏は、個人的にはどちらでもかまわないという。ただ、規律が乱れることに不安があり、《髪型を自由にしたら私生活でルールを守れるかなという余計な心配が出てくる。そういうのが守れるなら、全然かまへん》
 
 滋賀県の近江多賀章仁監督も、丸刈りによる規律を重要視しているようで、《衛生面を考えても清潔感を保てる》と話す。しかし、《自由にして、どんな髪型をするのか見てみたいという思いもある。髪型は個性が出るので、選手起用において重要なポイントになると思う》とも。
 丸刈り以外の髪型については考えたこともなかったという、日大三小倉全由監督はこう話す。《強制というよりも伝統になっている。長髪を認めても、うちは寮生活なので部員は髪を切りに行く時間がなかなかない。今はバリカンでそれぞれに刈っている》。記事の最後はこんなふうである。小倉監督が主将の寒川忠を呼びとめ、「髪、伸ばしたいか?」と訊く。寒川は「いえ、こっちの方が楽です。本当です」――。

2018年の調査では丸刈り8割

 日本高等学校野球連盟(高野連)と朝日新聞社が2018年におこなった高校野球実態調査(加盟校アンケート)では、およそ8割の高校で、野球部員の頭髪は「丸刈り」と取り決めていることが分かった。野球部の監督の意見が揺れ動こうがなんだろうが、部員がどう感じていようとも、厳然たる事実として、日本の高校野球の実態は、8割が「丸刈り」なのである。
 
 記事の中で補足されていた、鹿屋体育大森克己教授(スポーツ法学)のコメントを以下、引用しておく。
《日本では野球を武士道のように心身を鍛える修練の場とする思想があり、他競技よりも「和を乱していけない」という意識が強い。本来は好きな髪型が認められるべきだが、高校野球の場合、マスコミによって、丸刈りはさわやか、すがすがしいといったイメージがつくられ、定着してきた側面がある。指導者にも選手にも「高校野球=丸刈り」がいまも守るべき規範となっており、「丸刈りが当たり前」という考えに拘束されているからだと考えられる》

(2022年5月17日付朝日新聞朝刊「丸刈りにする? チェンジする?」より引用)

丸刈りはさわやか? すがすがしい?

 この問題、丸刈りをやめれば解決する問題なのか?――というところに、一抹の不安が私の中にある。
 学生の部活動全般に言えることだが、日本の教育現場では戦後ずっと、部活動という形態が、まさに子どもたちの「心身を鍛える」ための修練の場として、そこに重きを置きすぎている点である。ゆえに、野球部の寮生活で髪を切りに行く時間がない、だから髪をバリカンで刈ってあげている、という理屈が通るわけである。

日本において丸刈りの球児はおよそ8割という結果に

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 高校野球の全国大会は、大正4年の中等学校の大会(大阪・豊中球場)がはじまりとされている。大正13年より、西宮の阪神甲子園球場がその大会場所となった。2020年は新型コロナウイルスの感染拡大で、大会が中止となったことも記憶に新しい。
 戦前戦中の軍国主義下で統制されていた国民学校において、男の子たちがみな丸刈りだったのは、誰もがよく知っている。あの時代、言わば軍隊と刑務所と男の子は、丸刈りが強制されていたわけである。余談になるが、私が中学校に入学した時代(1985年)の頃、少なくとも茨城県の中学校では、みな生徒は丸刈りであった。丸刈りが強制されていた。その数年後、さすがに丸刈りは時代錯誤だ――ということになって、校則における丸刈りが廃止された。1992年のことである(「学校の校則は誰のためのもの?」参照)。
 
 諸説あるが、明治5年に初めてアメリカ人のホーレス・ウィルソンが、日本の学校でアメリカの野球――ベースボール(Baseball)――を教え、その後、実業家の平岡凞(ひらおかひろし)が、日本人のチームをつくったとされている、日本における野球の歴史――。しかし、その野球が、オリンピック種目の近代五種(フェンシング、ランニング、射撃、水泳、馬術)とは一線を画していることは言うまでもない。
 近代五種軍隊的教練の一環(その源は古代ギリシャの古代五種にさかのぼる)であったのとは対照的に、野球はそういう性質を持たないスポーツであり、アメリカの大衆娯楽としてのキング・オブ・スポーツだったからである。むろん、アメリカにはMBAのような、バスケットボールのスポーツ文化も根強い。
 かつての軍国主義下の日本で近代五種があまり盛んにならず、若い学生がおこなう野球が流行ったのは、皮肉といえば皮肉である。日本では野球が、軍隊的教練「心身を鍛える」部分に感応してしまった。日本人の野球熱はすこぶる高かったのだ。
 しかし、戦後もずっと、同じ幻影を抱き続けてきている。少年は、心身を鍛えるべきなのだと――。丸刈りはその名残であると思っていい。中学校で丸刈りだったのも同じであり、男子の「心身を鍛える」ための一環として、丸刈りを強要し、あたかも、さわやかですがすがしいと、印象づけさせた。

丸刈りは野球の伝統か?

 高校野球の「歴史」は古いようで意外と新しい。新しいようで意外と古い。では丸刈りは、高校野球の伝統と言えるのか。伝統という言い方は注意が必要で、英語圏で古来からの「伝統」を意味するのは、Traditionである。しかし日本の高校野球はそれよりもはるかに新しい時代(=近代)に生まれたものであり、Traditionとは言い難く、せいぜいHistoryである。つまり、先述の日大三小倉全由監督が言う伝統とは、History――すなわち「軍国主義下における丸刈りの強要」――を指していることになってしまう。なぜそれを今の時代まで引き継ぐ必要があるのだろうか。
 
 明治期に平岡凞が、アメリカの野球を日本で流行らせようとしたのも、日本人にもっと平和的な、民主主義的なスポーツの楽しさを知ってもらうためだったのではないかと、私は勝手に想像する。ところが、それ以後の軍国主義の国民統制で、武士道精神が重んじられ、「心身を鍛える」べく、規律を乱さぬよう男子は丸刈りが強要されていたために、本来的なスポーツという概念は消え、野球でさえも軍隊的な教練の一環として担われたことは、ここまでの説明で理解していただけたかと思う。
 野球にかかわらず、日本の武道武術やその他の球技も含め、日本人的思考回路には、いまだ、軍隊方式による規律の統制が呪縛化しているのだ。戦後のプロ野球が純然たる大衆娯楽のスポーツとなったのとは裏腹に、高校野球は、残念ながら、まだそうなっていない気がする。
 
 高校野球というものが、経験的に身近に感じられる若者や大人たちからすれば、“脱丸刈り派”のもとで髪を伸ばしている球児たち進歩的・急進的な存在に見えるだろう。一方、高校野球とは縁遠い門外漢からすれば、8割の球児がいまだ丸刈りであることに対し、「え、高校球児って、まだ丸刈りやってるの?」と驚くに違いない。
 そもそもこれは、どちらでもいいじゃないかという程度の問題なのか、あるいはもっと、人権やセクシュアリティにかかわる重大な問題なのかどうか――。高校球児の丸刈り問題は、当事者たちも含め、受け止め方はさまざまだと思われるが、その歴史を振り返りつつ、もはや考え直すべき時ではないかと私は思う。

〈了〉