の話。
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同性婚認めないのは違憲か合憲か?

2022年6月30日

 
 現行の日本の法律では、同性どうしの婚姻を認めていない。2019年に婚姻届が受理されなかった同性カップルら3組6人が訴訟を起こした裁判。原告らは、「婚姻の自由」を明記した憲法24条には同性婚も含まれると主張。今の法律で同性婚が認められない不利益は、「性的指向に基づく不当な差別だ」とし、「法の下の平等」の憲法14条にも違反するとして訴えていた。
 しかし、6月20日の大阪地裁土井文美裁判長は、「憲法に違反しない」と判断して原告の訴えを棄却。2021年3月の札幌地裁の判決とは判断が分かれた結果となった(「札幌地裁の判決―同性婚という幸福の道筋をひらく」参照)。

大阪地裁の判断は?

 2022年6月21日付朝日新聞朝刊では、一面の「同性婚認めぬ法律『合憲』 大阪地裁 札幌と判断割れる」の記事など、合わせて4面にわたって裁判の関連記事を掲載した。
 大阪地裁の判決の骨子は画像にある通り。同性婚訴訟の争点は3つで、①憲法24条の「婚姻の自由」に違反するか②憲法14条の「法の下の平等」に違反するか③法制化していないのは違法にあたるか適法か
 憲法24条の「婚姻の自由」は異性婚のみを指し、同性婚は含まないとし、同性婚の自由が保障されているとは言えないとした。争点②に係る同性カップルの保護については、「社会の中で公に認知されて、安心して安定した共同生活を営む利益が満たされていない」としながらも、「婚姻以外の制度の創設などによっても可能だ」「国の伝統や国民感情をふまえ、民主的過程において決められるべきだ」とし、違憲とは言えない旨を判断した。

差別的な現状を黙認した司法

 同日付朝日新聞朝刊には、「司法の役割を放棄■憲法は妨げぬ 明記」という見出しで、識者らの意見を記した記事があった。
 同志社大大学院の岡野八代教授は、「同性愛者への差別的な現状を追認する判決で、司法の役割を放棄している」 とし、国会の立法プロセスでは少数者の声が反映されにくい政治の現状を直視していないという旨の意見。自治体のパートナーシップ制度は法的効果がないので、同性カップルの不利益は今なお大きいとも。
 広島大大学院の新井誠教授は、大阪地裁における、婚姻その他の類似制度を法制化することに「憲法が禁止していると解すべきではない」とした点においては、「踏み込んだ判断だ」と評価しながらも、異性カップルが受ける法的利益と同性カップルが受ける法的利益に関して、判決は必ずしも等しくなくていい(=現状のままでよろしい)と述べているようにも見え、婚姻制度の同性婚を含めた法制化へのアクセスを求める原告の思いとずれているという。現行の異性間の婚姻制度の設計が「子を産み育てながら共同生活を送る男女への法的保護」とした点についても、国の主張に沿ったものであり、札幌地裁「子の有無にかかわらず、共同生活自体の保護も重要」の判決と比べて大阪地裁は一面的だ、と批判した。

日本の民主主義の憲法が試されている

 憲法24条の「婚姻の自由」同性婚(Same Sex Marriage)にかかわることについての私の見解は、既に「同性婚について議論する場を」で述べているのでここでは書かない。重要なことは、この問題についてひとりひとりが真剣に考えてみることである。この議論に参加する時、もし小学生が結婚について考えが覚束ないのであれば、「婚姻の自由」「恋愛の自由」に置き換えて考えてみて欲しい。
 異性カップルと同性カップルとが、法的効果に差がある現状で、本当に憲法14条の「法の下の平等」の精神と理念が、現状の日常生活と釣り合っているだろうか。言うまでもなく、国会における法制化のプロセスが前進することを望む
 その一方で、憲法そのものが時代的に古く、両性(both sexes)を家族構成の前提とした価値観だけでは、もはや今の時代にそぐわないことも否めない。日本国憲法における「自由」と「平等」が指し示す社会的範囲(国民的世界観)が、より進歩した多様性のある現行社会と大きく乖離していることが懸念される。しかし憲法では、婚姻に関して、どこにも同性間の婚姻を禁止するとは明記されていない。このことも、新井誠教授の指摘の通りである。

2022年6月21日付朝日新聞朝刊「同性婚認めぬ法律『合憲』」

同性婚大阪地裁判決骨子と憲法条文

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 婚姻にかかわらず、個人個人の性的指向が違うことを認識し合い、差別しない社会をつくるとした旨を前提に、パートナーシップ制度などが行政で認可されつつあることは評価できる。それだけでもういいではないかと言っているのが、大阪地裁の判決であり、司法とはその程度のものなのか、と思ってしまう。
 これまで、国民が判断してきたであろう「自由」と「平等」は狭い料簡であって、本来的にはもっとこういうことなのだよと示すのが、司法の役割ではないのか――。ドイツの哲学者カントが示してきたような観念論とはずいぶん程遠いなと思うのが、日本の司法のありようであって、はっきり言って笑っていられないくらいに深刻だ。
 憲法11条は基本的人権の永久性を示し、12条では自由と権利の保持義務を示している。また13条では個人の尊重と幸福追求権が示されており、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と明記されている。
 少数者であろうとも、当然である幸福追求の権利のもと、現行の婚姻制度の問題点を訴えを通じて指摘しているのは明白であり、そこに司法の側が、法整備を促す努力を怠っているように思えるのは、私だけであろうか。

〈了〉