コンドームを使わない理由はない
2022年10月12日付朝日新聞夕刊の「オトナの保健室」で、「本音言えない女性たち」という記事が掲載された。性感染症を患い、診察室に訪れる女性たちの本音として、コンドームをつけてと相手に言えなかったり、乱暴なセックスに我慢していたりという実情が少なくない。産婦人科医の河野美代子さんが、実際に毎日診察室に訪れる患者さんの女性たちの声を拾っている。
とくに性風俗で働く女性たちは、男性客にあれこれ言えず、また接客に関する店側の方針があったりして、苦しい立場に追いやられている。各々の店によって規制がまちまちで、コンドーム使用が徹底されていなかったり、性感染症の検査結果の提出が義務となっていなかったりと、働く女性たちを守るシステムが、付け焼き刃の建前にしかなっていない面がある。
問題の本質は、どうしても性交渉の立場になると受け身になってしまいがちな女性に対し、配慮の足りない――もっと言い方を変えれば、性交渉での女性の人格を慮らない――男性側にあるのだ。
コンドームは性感染症を防ぐ
記事の中で河野さんは、性感染症(STD)の実態についてふれている。
20代はクラミジアが多く、60代70代は性器ヘルペスが多いという。そして今、急速に増えているのが、梅毒だ。夫が梅毒であることを打ち明けないでいたために、うつされてしまった女性の患者さんがいるという。梅毒に関しては、当サイトの「梅毒はほっとくな」を参照していただきたい。
河野さんはコンドームの使用は義務だと考える。
性感染症が人から人へうつる原因の多くは、性器や肛門の接触によるものだ。男性のペニスに装着するコンドームが、相手の性器や肛門への直接的な接触の度合いを著しく軽減することから、かなりの確率で性感染症を防ぐ効果がある(100%ではない)。
しかし問題は、男性の側に「セックスではコンドームを使わない」スタンスを取りたがる人たちがいて、女性たちはなかなか逆らえず、たいへん困っている。
河野さんはこうした実情に対し客観的に、こう述べている。
《「コンドームを使ってとは言えない」と言います。男性の意向を優先する姿勢からは、性に対して受け身で、非対等な関係が垣間見えます》
河野さんの著書『さらば、悲しみの性』
河野さんと言えば、当サイトでもたびたび参考にしている名著『新版 SEX & our BODY 10代の性とからだの常識』(NHK出版)で知られている(「お薦めしたい2つの性教育本」参照)。
1985年に出版された『考える高校生の本20 さらば、悲しみの性●産婦人科医の診察室から』(高文研)は、診察室で働く若い頃の河野さんが、女性たちの叫び声を切実に代弁した秀逸本である。
女性の“悲しみの性”をテーマにした本であるがゆえ、前著とはまるで趣が異なる。まさに“女の悲しみ”が充満したルポルタージュともなっている。ある一例を挙げてみる。
真夜中、河野さんが勤務する病院に担ぎ込まれてきたのは、15歳の高校生だった――。救急隊からの電話連絡により、子宮外妊娠の疑いがあるという。
河野さんら医師が輸血などの準備をしているうち、患者が運び込まれてきたのでベッドへ寝かせた。血の気がひいて顔は真っ白、血圧も低下、意識は朦朧としていた。お腹がふくらんで、大変痛がる。
河野さんが子宮の裏側へ腟のあたりから注射器を刺し、内筒をひくと、腹腔にたまっていた膿が出てきた。彼女は腹膜炎を起こしていたのだ。子宮内膜炎から卵管炎になり、化膿して腹膜炎になったのだという。
手術が必要になった。血圧が下がると、敗血症の危険があり死亡率が高くなる。緊急を要する手術だ。
たいへん難しい手術で、本来腹膜炎は悪いところを切り取らなければならない。しかし患者として運び込まれた彼女の場合はまだ15歳で、卵管を両方切除すると、完全不妊になってしまう。
河野さんは迷った挙げ句、片方の卵管を残すことにした。残した卵管がもし悪化すれば、もう一度手術して切除するリスクがあるのだ。
幸いにも手術は成功し、彼女は快復に向かった。熱も下がり白血球の数も減少してきたという。河野さんは彼女に話を訊いた。
なんと中学生の時から真剣に恋愛し、肉体関係になったのだという。彼の方が病気をもっていたか、雑菌が腟から入ったのかもしれない。若い女性の卵管炎が非常に多いのだと河野さんはいう。
そのうち、相手の男性が見舞いにやってきた。が、どうもこの男性が彼女にふさわしくないと河野さんは思った。見舞いに来たのに、派手なアロハシャツ、ツッカケを履いて、音を立てて廊下を歩く。生死の瀬戸際で苦しんだ恋人を見舞いに来たとはとても思えない。しかし、彼女の方は従順でしおらしい。
恋人が何度か見舞いに来た時のこと。彼女が病室から消えてしまったという。彼女はまだ手術後の治療中で、傷口に厚いガーゼを当ててさらしを巻いているはずなのに。
いったいどこへ行ったのかと院内を看護師らが探したところ、二人は見つかった。なんと病院の屋上にいた。その屋上で彼らは、性交していたのだ。
河野さんは彼女を診察に呼び、問いただした。すると彼女はこういう。「彼にせまられたから、仕方がなくて…」。
普段、滅多に患者さんに怒らないという河野さんが、この時ばかりは激怒した。「…ただの性欲の対象にされてるだけじゃないの。彼の性欲のはけ口にされてるだけじゃないのよ!…」
そうして河野さんも彼女もボロボロと涙をこぼしたという。河野さんは彼女らの関係とセックスについて、こう述べている。これでは精神的な満足すら得られるはずがない。“喜びの性”とはほど遠い“悲しみの性”だったのだろうと。のちに彼女は、彼と別れたという。
避妊しようとしない男性のモラルの欠如
河野さんの病院に訪れる女性の、時として表面化する「性の悲しみ」――男性がパートナーを慮ろうとしない無責任さ――それをもっと勘ぐれば、本当にただの性欲のはけ口にされているだけではないのかという疑いすら生じてくる問題であり、実際に苦しみや痛みを伴う深刻さがある。
先述の新聞記事をきっかけに、こうして『考える高校生の本20 さらば、悲しみの性●産婦人科医の診察室から』を読んでみると、人工妊娠中絶であったり性感染症であったりする際の、セックスのパートナーとしての夫あるいは恋人という立場の男性の「性への無自覚さ」をあぶり出した点において、とてつもなく考えさせられる面があった。
コンドームをつけない。避妊しない――。男性は女性に対し、いや根本的に性そのものに対して、ある種、鈍感や無自覚を決め込む。セックス、もしかしたら家庭生活全般そのものにおいて、男性のふるまいが女性を喜ばし、幸福を与えているといった思い上がりがあるのではないか。
女性を性欲や性処理(=セックス)の対象あるいは道具としてしか見ていない側面があるとすれば、互いに“喜びの性”とはほど遠い“悲しみの性”に暮れるばかりではないのか。
一方で女性もまた、性交渉あるいは家庭生活全般の中で、パートナーの男性に対し、とことん受け身になってしまうような「従順な女性」を演じてはいないだろうか。
その結果、性の快楽はたちまち悲劇となり、その悲しみはほとんど女性だけが背負うという不条理に陥りがちである。性の孤独さに対峙しなければならない痛み、苦しさ、切なさは、女性の側が背負い、男性はその場から逃げていく。こうしたモラルのない負のスパイラルから脱却すべきなのだ。
セックスが互いにとって“喜びの性”の解放区となるためには、互いの性とそのリスクをよく理解し、避妊や性感染症についての正しい知識をもつこと。そして何より大事なのは、モラルに即した思いやりのあるセックスを実行すること。一方的な、独りよがりの、性欲を満たすためだけのセックスは慎むべきだ。